真実はどこに、、、嘘がまかり通るこの世の中!真実を知りたいと思うのは当然だ!

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韓国 国民補導連盟事件 


国民補導連盟事件
 1951年に起きた
韓国軍による
20万人以上の虐殺事件
今まで伝えられなかった韓国のタブー事件を追いかけたドキュメンタリー

韓国最大のタブー  The maximum taboo in South Korea
NO,1  
NO,2
No,3
NO,4
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朝鮮半島の歴史 の真実 (動画)

朝鮮半島の歴史 の真実 動画を集めました


KOREA 韓流 日韓併合前の韓国
加耶大学 客員教授(韓国人)が語る 
朝鮮人が認めたがらない朝鮮人の歴史 1
朝鮮人が認めたがらない朝鮮人の歴史 2
朝鮮人が認めたがらない朝鮮人の歴史 3
1931年の京城(ソウル)の映像

山本五十六は日本を敗戦に導いた!

山本五十六の名言

やってみせ、

言って聞かせて、

させてみせ、

ほめてやらねば、

人は動かじ

一度は聞いたことがある言葉だが、
実はこの言葉とは、逆に
日本を敗戦に導いた
アメリカの手先で、臆病で
卑怯者だった!

歴史は勝者が作るもの、アメリカにとっての
功労者ゆえに真珠湾奇襲攻撃の発案者でありながら
戦犯にもされづ、名将と語り継がれてきた訳だ!
しかし、真実は、

2012年の黙示録 サイトより
山本五十六の大罪
WILL  2008年8月号  「天地無用」

推 進
  大東亜戦争が国民を悲惨な窮状に陥しいれた根本の真実が、今ようやく中川八洋(『山本五十六の大罪』)によって曝露されている。良識派として偶像化されている米内光政が、実際に採った行動は以下の如くであった。
  昭和12年、廬溝橋事件を引き起こした運命の一発が、毛沢東の軍隊による仕業であった事実は周知であろう。しかしこの悪辣な罠を警戒した日本陸軍では1カ月後もなお不拡大派が主流であった。しかるに8月10日の閣議で、海軍大臣米内光政は上海への出兵を強引に要請する。8月12日、米内は首相近衛文麿の支援を得て二個師団出動を決めさせた。
  それのみならず8月14日の閣議で米内大臣が「南京占領」を唱えている。このとき外務大臣も陸軍大臣も反対した。すなわち南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政である。興奮した米内は総理でもないのに8月15日午後7時半、「頑迷不戻(ふれい)な支那軍を膺懲(ようちょう=こらしめること)する」と、支那(チャイナ)への宣戦布告とも見倣し得るラジオ演説までした。のち無駄な戦死者を増やすのみであった「特攻」作戦を裁下した高官5名の1人が米内光政であった事は否定できない事実である。

怯 懦
  中川八洋の調査によれば、山本五十六の行動は奇怪きわまる。
  彼が発案した真珠湾奇襲作戦は海軍部内の承認を得た検討の結果ではなく、及川古志郎海軍大臣に送った書簡一通によってのみ伝えられたにすぎない。事実、山本が奇襲部隊の出撃を敢行したのは、ハル・ノートが日本側に手渡されるより以前であった。この奇襲が何等の戦闘的実効をもたらさず、遂に米国の戦意を高めるのみに終わったのは申すまでもない。
  そして日本の敗北を決定的にしたミッドウェー島攻略作戦の時機に山本は何処に居たか。真珠湾の時と全く同じ、聯合艦隊の司令部を瀬戸内海に置き、戦艦「長門」「大和」「武蔵」と居を移しつつ、賭博好きの本性を顕してカードに耽り、将棋をさして優雅な生活を送っていた。
  ミッドウェー海戦の大敗北のあと、その責任をとるどころか、日本国内に対して敗北を隠蔽するのに腐心する。空母4隻から生還した第一級のパイロットたちをバラバラにして次々と遠方の前線に配属し、生証人が残らないように死線の境に送り込んで敗戦を帳消しにした。

欺 瞞
  昭和19年、台湾沖航空戦の報道では、大本営海軍部の発表を丸呑みする各新聞によって次の如き戦果が謳いあげられた。
  すなわち、撃沈は空母11隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻、撃破は空母8隻/戦艦2隻/巡洋艦4隻、記録的な大勝利である。しかし中川八洋の解明するところ実際は、米国の空母も戦艦も、1隻たりとも撃沈していない。米国側で被弾大破したのは巡洋艦2隻のみであった。これが日本海軍の戦闘機300機以上と、同数のパイロットを失った末の代償であった。大本営の嘘もすでに極限に達していたのである。海軍は昭和天皇と国民を終始欺き通した。
  陸軍は海軍が公言したこの虚偽戦果に基づいてレイテ島作戦を立てた。その結果は8万人部隊の97%以上の戦死者を出した史上空前の全滅である。これらの悲劇を生んだ嘘の提造はすべて大本営海軍部の画策であった。
  戦後、旧海軍の連中が記述した内容が虚偽とねつ造に満ちている実態を中川八洋はごっそり調べた結果を要約し、それらがことごとく嘘と脆弁によって構成されている内幕が実証された。これら綿密な証明に接すれば、誰でもが寒疣(さむいぼ)の立つ思いを味わうであろう。


● ミニ解説 ●
  山本五十六はフリーメーソンであり、日本を敗戦に導くために大きな役割を果たした人物です。そのため、真珠湾攻撃の発案者でありながら、東京裁判では全くその罪を問われることなく、戦後も“名将”であったかのような報道や出版がなされています。世界を支配する闇の権力に高く評価された“功労者”だからです。
  山本五十六は戦地で敵戦闘機に攻撃されて死んだことになっておりますが、これが偽装死であることは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社NF文庫)を読むとよくわかります。海軍の中枢のほとんどが世界支配層によってコントロールされていたということです。
 その結果、戦後東条英機を初めとする陸軍は徹底的に戦争犯罪人として断罪されていますが、海軍にはそのような批判は寄せられていません。しかしながら、アメリカとの戦争の火ぶたを切ったのは真珠湾攻撃なのです。山本五十六は、アメリカが国内世論を第二次世界大戦への参戦に導くための口実をつくった立役者なのです。その真珠湾攻撃で、山本五十六が「自ら指揮を執るから」と言っておきながら、実際は瀬戸内海に浮かぶ戦艦の中で悠々と過ごしていたことがわかっています。
(なわ・ふみひと)

  以下は、その事実を明らかにした中川八洋氏の『山本五十六の大罪』(弓立社)の中の一文です。

■怯懦に生きた“世界一の臆病提督”山本五十六

  山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、“卑怯”の2文字を絵に猫いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。
  1905年5月の日本海海戦で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保(長崎県)港に浮ぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できようか。あるいは、1805年のトラファルガル海戦で、「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史の if としても考え付くものはいまい。
  しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、“率先垂範の指揮”という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。

■山本五十六は死刑――海軍刑法第四四条

  1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、“最悪・最低の狂将”だった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。
  第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているのにもかかわらず、空母四隻の前方にいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540?に「逃亡=職場放棄」していた事実。
  第二の理由は、4隻の空母の、3隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の「職務放棄」。
 この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第四四条、もしくは第三八条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

第四四条 指揮官はその艦船軍隊を率い 故なく守所もしくは配置に就かず またその場所を離れたるときは左の区別に従いて処断す
 1、敵前なるときは死刑に処す
 (以下略)
                 ―― 『山本五十六の大罪』(中川八洋・著/弓立社)

www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-magazine032.html
                                     



大韓航空機撃墜事件の疑問(シフリンレポート)

大韓航空機撃墜事件の疑問

 

007便に生存者あり、ロシア強制収容所に抑留中、マクナルド米国下院議員はモスクワ のルビヤンカ刑務所に収監中。
此の報告書の著者はA・シフリンなる人物。住所はイスラエ
ル国エルサレム市91235ラモン私書箱23678号。
A・シフリンの肩書はソ連刑務
所・精神刑務所・強制労働収容所調査センターの理事。報告書の共著者の名前もE・シフリンとあり、肩書は事務局長になっている。
二人は家族か兄弟なのだろう。

 前書きにはこう書いてある。「以下は1983年樺太沖で撃墜された太韓航空ボーイング 747型機(007便)と、其の乗員乗客の不可解な消失に関するCIAの暗号文極秘報告 書を分析したものである。」

 二人の報告書を紹介するのは、米国のキリスト教団が発行元の機関新聞『ミッドナイト・メッセンジャー』紙。報告書掲載日は94年1・2月号となっている。

 89年以降からこの事件の犠牲者(行方不明の乗客ら)について追跡調査を続けてきた彼 等(調査センター)は、90年になってある確証を得たという。

 

  その大韓航空機はソ連空軍機が発射した二発のミサイルで大破して海中に沈んだのではなくて、樺太に近いモネロン島付近の浅い海に軟着水させられた。

  乗客(この中には米国下院議員ローレンス・P・マクドナルド氏も含ま

れる)と乗員はソ連 軍沿岸警備隊の手で洋上に浮かぶ機体から連行

された。

 

 この情報はシフリンらのソ連の地下情報網から得たもので、事件のほぼ「完全な実態」を 掴んだシフリンらは、米国上院議員のジェシー・ヘルムズに連絡、調査結果を伝えている。

ところがヘルムズ議員が反応してきたのは、90年11月、つまり6ヶ月もたってからだっ た。更にヘルムズ議員らは、情報の詳細を求めてくるものの、それを求めるまでに又1年を 要した。シフリンは半ば呆れている。

 91年5月にようやくヘルムズ議員がシフリンらを訪ねる。議員側近の幹部3人も同行し てきた。J・ルシエ博士、D・サリバン氏、V・フェディ氏。シフリンらはソ連から証人を 呼び寄せ、ヘルムズ議員らの質問に答えさせた。証人らが宣誓書にサインして供述した証言 にヘルムズ議員は納得した。
大韓航空機007便は大破せず、乗客全員は無事生存している
事を裏付ける「圧倒的」証拠が揃ったとヘルムズ議員らを認めた。

 シフリンはこれらの調査結果を提供するかわりに、ソ連が乗客を誘拐同様に扱った事態を 米国上院公開聴聞会で取り上げる事、並びに米国政府による徹底調査を実行するよう「依 頼」した。ヘルムズ議員ら1行は、シフリンらの依頼に賛意を示したものの、実際にその依 頼の結末を得るまでには再び相当な時間がかかった。
ヘルムズ議員らの返事は、絶えずまち
まちで「ただいま、大統領宛の特別報告書を作成中につき、今しばらく待って欲しい」とす る返答ばかり。

 

 91年6月、D・サリバン氏から、先般の証拠資料がCIAと国防省で正しい証拠として 確認された旨の連絡がシフリンらに届いた。シフリンらはこの連絡ぶりに不信感を抱いてい る。
シフリンらはヘルムズ議員らに対して証拠の全てを渡してはいなかったようで、その事
が逆に全てを知る米国当局の不信感を生んだとする記述を報告書に書いている。そして、   我々がいずれ世間に暴露するのを米国当局は恐れたようだ。・・・

  だから米国政府は我々の先手を打って、対抗措置を取るようソ連側と合意したのは間違  いない。  

 とシフリンらは言う。

 凄い話である。なぜなら、米国とソ連が実は裏側でしっかりと繋がっている構造をシフリ ン等は承知の上でクレームをつけているからだ。
それに両大国も又手を取り合って民間人シ
フリンに「対抗」している様子が伺える。ベラスコの言う「良心的な歴史観」の強さをシフリンらは当然のように心得ているのである。米ソ対決とか冷戦構造が実在したと本気で信じ てきた人々には、気の毒なくらいのシフリンらの行動ぶりである。
ベラスコやシフリンらは
米ソ対決構図も「両建て主義のまやかし対決」として全く興味も幻想も抱いていない。

 90年12月、シフリンらに追い込まれたソ連の政府機関新聞『イズベスチャ』紙が、ま ず単発記事(007便事件)を掲載した。事件記事の掲載を、シフリンは「極めて異常だ」 という。
というのは、その記事はソ連政府の失態を批判したもので、その内容は大韓航空機

の領空侵犯を非難しながら、機体を海底に横たわっていて、乗客は全員死亡したと断定して いながら、しかしその事実を世界に公表すべきだとソ連当局に提案しているからだ。イズベ スチヤ紙は提案論拠を、あのカチンの森の大虐殺に関与した旧ソ連が後年になってポーラン ドに謝罪したその度量におき、だからこそソ連は過ちを素直に詫びる事の出来る大国だとい う論旨に、シフリン等は異様さを覚えたというわけだ。

 ただし記事は、「無傷で海底に横たわっている機体」をいつのまにか「バラバラに大破し た機体」にすり替えている、シフリンは怒る。

 「ソ連は269名の乗客に死を宣告したまま、その家族に釈明さえしていない」と強く政 府を非難するイズベスチャ紙は、91年から「事件」の本格的な連載を25回シリーズでは じめた。

 記事は同紙独自の調査によるものとされ、その調査内容はシフリンが未入手の新事実も多 数あった。むろん偽情報も混じっていたし、ソ連政府の公式見解を真っ向から否定する証言 も含まれていた。フライト・レコーダーがソ連側に回収されていたのは既に明らかだったに も関わらず、米国、韓国それに周辺国政府が、フライト・レコーダーを韓国に返還せよと抗 議するわけでもない。
せめて「最後の30秒間だけでも聞かせろ」などと注文をつける事も
なかった、と関係西側諸国の不甲斐なさをなじっている。

 シフリンらはソ連の態度を西側政府が知り尽くしているから返還要求を断念したのだろ う、とたかをくくっているソ連の態度を許さない。
シフリンらの地下調査網は調査を継続し
ながら、決定的な証拠を入手していった。例えば、乗客は救出された後強制収容所に連行さ れた、KGBは米国の防衛事情を尋問する為にマクドナルド下院議員をモスクワのKGB中 央刑務所(ルビヤンカ)に拘置した。などなどの情報が集まった。

 

 シフリン等の堪忍袋の緒が切れた。91年になってもヘルムズ上院議員等は約束を果たさ ない。上院公開聴聞委員会の件も政府の対ソ交渉の約束も音無しのままだ。堪忍袋の緒が切 れたシフリン等は公開を決断した。だが、シフリン等の行動は失敗する。91年7月11 日、エルサレムで記者会見を開いたシフリンらの元へ集まった記者は一人もいなかった。
見開始の一時間前に正体不明の何者かが会見中止を報道機関にふれまわった為だったこと が、後に分かった。

 即座に発表すると約束する記者らに資料を配布したが、全ては無駄だった。資料を掲載発 表した報道機関はなかった。シフリンは、ある米国記者の例を非難している。それは女性記 者ウェイマスの態度についてだが、彼女はヘルムズ議員の紹介で來たワシントン・ポスト紙 の編集者。

 この女性記者はシフリンらを三時間インタビューして資料を米国に持ち帰った。その取材 目的は、 「なぜ米国政府が反応しないのか。その疑問を解く詳しい記事を書く為だ」と説明した。
の後ポスト紙に何も書かれていないのはいうまでもない。

 

 

●ソ連に一杯食わされたCIA

 1992年秋、「世界の報道機関」に韓国の野党党首ソン・セ・イル氏の声明が配布され た。氏はその声明で007便の乗客全員がソ連の強制収容所に収監されたとする強い証拠が ある。と述べた。
声明を報じた世界の多くの新聞社は、当事件を綴ったCIAの報告書のカ
バー写真を同時掲載して、声明の信憑性を裏付ける工夫をした。

 シフリン等もソン・セ・イル氏から78頁にわたる報告書を入手、分析検討したうえで、 次のような結論を下した。
ソン氏が得ていた報告書は、イズベスチャ紙が調べた最初の部分
と、シフリン等の調査資料でつくり上げたものだとわかった。つまりシフリン等が91年6 月に作成してCIAに渡した直後の報告書であった。シフリン等が驚いたのは、事件直後の

1983年9月の段階で、CIAは既に乗客全員が救出され、ソ連国内の収容所に送還され ている事実を掴んでいたのを認めていた事だった。

 驚きと憤慨が相半ばするシフリンらは追い打ちをかけられる。米国の新聞が国務省筋の談 話として、「我々はシフリンよりエリツィンを信用する」と紹介したのだ。

 シフリンらはCIA報告書をつぶさに検討した。一番知りたいのは1983年9月以降に CIAが掴んだものは何か、だった。特に重要な点は、米国政府がゴルバチョフとエリツィ ンを信用した(信用したよりも画策をした!忍)なんらかの証拠を突き止める事だとシフリ ンらは考えた。

 1 CIAは事件発生と同時に日本列島の北海道北端の稚内にある陸上自衛隊レー

  ダー基地が傍受した007便の交信記録を入手した。

   同時にソ連のレーダー基地からも同様の交信記録を受け取っていた。両方の記

  録は共にKAL007便の攻撃された後の飛行経路を、少なくとも12分、つま

  り高度3万500フィートから機体がゆっくりと下降しながら0ポイントに至る

  までを追跡記録していた。

 2 CIAはKAL007便の機長が、攻撃を受けた直後の3分間以内に「東京成

  田管制塔」と交わした最後の無線通信で一万フィートまで降下すると報告してい

  る事実を知っていた。

 3 CIAは、以上の15分間の平均降下速度が加速せず減速している事、つまり

  CIA報告にある「KAL007便は急降下若しくは墜落状態にあった」のでは

  なくて、「機長がある程度制御した状態」にあったことを知っていた。

 4 単純計算からでも、機体が攻撃にさらされた直後の5分間以内に、それまでの

  3万5千フィートから目標の1万6千4百フィートまで急降下した事、つまり平

  均秒速61.6フィートで降下したことがわかる。次の4分間の高度1万640

  0フィートから5000フィートまでの平均降下速度は秒速47.9フィートだ

  った。そして最終的に(攻撃後、レーダーに捕捉追跡された12分間の内の)最

  後の3分間の平均降下速度は秒速22.2フィートだった。

 

 以上のことから得られた結論は、機体が平均速度を減速して下降していた、
と云う事だっ
た。この結論は、機体が制御不能になって海面に激突したとする考えとは絶対に相いれな い。航空学の専門家によれば、3万5千フィートからのボーイング747機の規定降下時間 はおよそ15分、一方制御不能の機体が墜落する際は二分間を要さないという。

 

 5 CIAは、ソ連軍の攻撃機が「参照地点周回飛行」をしていた事実(交信)を

  傍受していた。その為、攻撃後4時間以内にソ連の捜索救助活動が実行され、米

  国人乗客が含まれる民間航空機を沈没させた事を攻撃機のパイロット等は承知し

  ていた。もしも民間機が不明地点で会場に墜落した場合、初期段階での救助活動

  はありえない。ソ連側は民間機の着水地点をあらかじめ知っていたからに他なら

  ない。

 

 報告書には当然、起こりうる疑問があげてある。ソ連戦闘機のパイロット等は米軍機R Cー135だと信じていた「撃墜機」の乗客の国籍をどんな方法で確認したのか。
この疑問
に対する答は直ちに与えられている。
それは、ソ連救助艇は機体が破損した状態で海上に着
水した民間機の救命ボートから乗客を救助する際に無線連絡を送っており、その緊急連絡を ソ連戦闘機のパイロット等が傍受していたからだ、というのが答になっている。

 

 6 CIAはレーダー画面から民間機が消えると直ちにソ連軍司令官が墜落予想地

  点へ沿岸警備隊の救助艇8隻を派遣した事を知っていた。

 7 CIAは、当時のソ連最高会議議長のアンドロポフが何らかの理由により、K

  AL007便のアンカレッジ離陸以後の様子に特別な関心をもっていた事を知っ

  ていた。

 8 日本人漁師等から得た目撃証言は、民間機が墜落せず軟着水した事を明らかに

  している。

 9 CIAは事件の瞬間からソ連が大規模な偽装隠蔽工作に従事していた事を知っ

  ていた。ソ連が捜査活動をどこで実行しているのかも知っていた。

   その一方でソ連は同時に墜落予想地点に関して偽りの座標を公式発表した。加

  えて”おとり”の「波動音発生装置」を墜落機の実際の水没地点から約1000

  キロメートル離れた公海海域の深海に設置して、米国と日本の捜査隊を欺いた。

 10 機体と遺骸が不明な点をどう説明するのか。
  当時は比較対照になる航空機事故

  がなかったせいもあったが、1985年と87年には似たような事故があった。

   両方とも太平洋上空でボーイング747型機を爆発して、乗員、乗客全員が死

  亡した。およそ1キロメートルの深海に残骸は沈んだものの、フライト・レコー

  ダーは数日内に回収され、数え切れない数の荷物や機体破片や遺体も回収されて

  いる。

 

 CIAがソ連側に騙されていた事に気付いたのは、1991年イズベスチヤ紙の記事が掲 載された後だった、とシフリン等はいう。

 

 

●「真相」をつくる人々

 米国大統領が事件発生から20時間も過ぎてから知ったその異常さにCIAは注目してい る。生情報がワシントンに届いたのは、事件後4時間を経過していたという。しかもその第 1報は取り消され、30分後に再発行された。だがその再発行時には、元の生情報に細工が 施されていた。その細工は事件後の11日まで続けられていた。

 シフリンらは、事件1ヶ月半後の「改変」に注目した。その改変が事件全体に重要な役割 を果たしたと疑った。CIA報告書の指摘によれば、1983年9月3日に米国国家安全保 障局(NSA)は「最終的」と題した報告書を纏めたものの、その報告書の内容は読むに耐 えないものだという。

 NSA報告書では、攻撃されて被弾4分後のKAL機の高度は500メートルだったと書 かれていた。実際には5000メートルだから「0」がミスプリントされたといってもよ い。だが、本当にその数字が正しいのならば、平均降下速度は制御不能状態下での墜落状態 に近い。ところがもしもそうだとすれば、機体は最初の4分間に急速降下を行った後、更に 8分間にわたって空中にあったとする確定事実に矛盾してしまう。

 なんおことはない、この「500メートル」は1ヶ月も後になって訂正される。CIAは その秘密報告書の中で「我々が証拠の重要性は無知だったのか、それともCIAが過ちの重 大性に無頓着だったか、そのどちらかだった」とするくだりをシフリン等は紹介して、CIAを無能機関呼ばわりしている。

 更に「我々CIAは1983年9月にソ連が実行した欺瞞に関して強力な証拠をもってい たが、その偽装シナリオの重要性を見抜けなかった」と反省する記述をシフリンは紹介して いる。CIAはようやくソ連側の計略に気付くまでに一ヶ月を要した。CIAはソ連のレー ダーを追跡する米軍の追跡レーダーと、日本の自衛隊稚内基地が備えた追跡レーダーのデー タを分析して、正確な地理座標を求めている。更に米軍は、偵察衛星画像も偵察機の画像も 遠隔水中ソナーなども一切活用しなかったとCIAは述べている。

 米国務省は、事件に関する手出しを一切禁じた。CIAがした事は「国務省が何もする な」と命じた事を報告書にそう書くことだけだった。あらゆる秘密情報を活用出来る筈の シュルツ国務長官は、一言「KAL機搭乗者は全員死亡した」と述べるに留めていた。その 言葉を覆す証拠事実の山の中にシュルツは埋もれていたのに、とシフリンは悔しがる。CIA報告書は、ソ連に完全にしてやられた米国情報部の大ミスを報告書の中で認めていた。

 シフリン等は、92年夏のCIA報告書(非公開)でようやく認めたシフリン等の調査結 果よりも、国務省がソ連を信用してきた不思議な態度に首をひねる。シフリン等は、米国国 務省の態度から、CIAがこれまで収集してきたソ連の欺瞞や虚偽を、米国の高レベルの 人々が悉く握りつぶしてきた事を訴えている。シフリン等は、CIA報告書の文面をそのま ま次のように紹介している。

  米国情報部がソ連のKAL007に対する欺瞞についての情報部自身の証拠を

 考慮乃至は理解する事に失敗した理由は、米国情報部が1969年?83年まで

 の時期を通じて軍備縮小条約に関するソ連の欺瞞と違反について増大する一方の

 証拠を徹底的に報告分析することを一貫して拒絶してきたからである。米国情報

 部とりわけCIA内部には、軍縮に関するソ連の欺瞞と批判の証拠及び分析を「

 差し控え」たり禁止したりする特有の風潮があった。1970年代と83年まで

 の時期を通じて米国情報部の内部には、ソ連は重大な事柄について大掛かりな欺

 瞞工作など出来ないし、軍縮条約の交渉でも確かに欺いたり隠したりしていない、

 とする考え方が支配的だったのである。

 

 CIAの「事なかれ主義のサラリーマン根性」が頑だとシフリン等は嘆く。解雇を恐れて 真実追求を捨てるとは何事かと罵り、天を仰ぐ。CIA自身が報告書の中で自己批判してい るようでは処置無しなのだろう。

 ソ連の欺瞞を認めようとしないCIA自身の偏向と近視眼性が原因で、CIAは独自で集 めた証拠の重要性を理解出来なかった。

 

 こんな調子でCIAが「自己批判」しているのだから仕末が悪い、とシフリン等を嘆く。 

 

 

●ゴルバチョフの沈黙、シュルツの命令

 CIA報告書がミハイル・ゴルバチョフの沈黙を指摘している点にもシフリン等は言及し ている。事件発生の1983年9月に共産党政治局員として将来を嘱望されて登場したゴル バチョフが、政治局会議の場でこの事件の全てを知り尽くしていながら、沈黙を決め込ん で、今日に至るのを許すべきではないというのだ。

  ユーリー・アンドロポフが最高指導者に仕立て上げようとしていた傑物ゴルバチョフ は、  ソ連指導部の最有力幹部として大韓航空機事件に対してなすべき事をなにもしていない。

 

 シフリン等は、自分達の調査結論をCIAの調査結果と比較検討した結果、CIAから完 全に指示された出来映えだと、自らの調査結論に自信満々である。証拠の詳細が次々と紹介 されていった。

 

 1 ソ連潜水夫は、無傷のボーイング747機体内部からボイス・レコーダーを二   基   回収した。機内には遺体、荷物はなかったと証言した[国家特別秘密委員会(委員   長V・バレインコフ将軍)発行の秘密報告書の一部から]。更にこの情報はイズベス チャ紙とCIA報告書が掲載した。

 2 ボイス・レコーダー回収船に同乗した国家調査委員会複数の証言。ルベルツィの ERAT研究所で設計された特殊ゴム袋(大韓航空機の沈没現場でボイス・レコー

ダーを海水と一緒に回収した装置)に関する詳細な情報。ボイス・レコーダーから

回収されたテープの解読作業に当たったルベルツィの専門家等の名前(CIA報告

書も確認している)。

 3 ボイス・レコーダーの一基に「ハミルトン補聴器」の商標があり、それをボーイグ社に照会確認した。

 4 事件当日の現場目撃談話をネブェルスク(樺太)の漁師、日本人漁師等から直接 入手した。「着水した機体から乗客が救助された」とする漁師等の談話(第1次情

報源)は、リイズコブ隊長(本土側のザブイエトリイリィチャ村にあるレーダー基

地にあるソ連防空隊将校)、及びオルガコフ元帥とウァレンコフ将軍の側近数名の

目撃証言(漁師から聞いた第二次情報源に相当する)。これらの証言をCIAは完

全無比の正確さ、を認めた。

 5 浮上(浮遊)中の機体を撮影した写真がある。ソ連の飛行機から撮影されたもの とされている。CIAはその写真が航空機でなくヘリコブターから撮影したもので、 747機体をもっと深い海底に沈める為に曳航する過程を撮影したとしている。

 6 乗客乗員はソ連の特別秘密収容所に送られ、子供らのみ孤児院に送られた模様。  それらを指揮したのはロマネンコ将軍。将軍はこの業績で駐東ベルリンソ連大使館 付き陸軍武官に栄転、その他ではからずも「自殺」。死亡事実は、ソ連の新聞コム ソモルスカヤ・プラウダが確認した。

 

 正義の追跡調査団シフリン等は、繰り返しソ連の欺瞞工作を指摘する一方で、シフリン等 の調査結果がCIAの調査結果と一致している事実を訴えている。加えて、CIA報告書に ある「生存可能者の帰還の為の外交努力の必要がある」と説く点を支持しつづけている。

 その反面で、CIAが無視している事実をも合わせて指摘する。その事実とはーー

 1 C・K・スノウ氏(大韓航空アメリカ地区事務所所長・在ロサンゼルス)が、事

故の数時間後にかける電話は、マクドナルド下院議員の広報担当官トミー・トーレ

ス氏宛で、「今、ソウルの大韓航空本社から連絡があり、それによると在韓米国大

使館より、韓国政府、外務大臣等に対して大韓機が樺太に着陸したというものだ」

と知らせている。

トミー・トーレス氏は更に別な知らせをアルブィル・ウィルヘルム氏から今届い

た知らせによれば、日本政府の航空交通部民間航空課のタカノ(高野?)氏から次

のように知らされたと前置きし、日本の航空自衛隊は北海道の基地レーダーによっ

て大韓航空機のソ連領樺太への着陸を追跡した事を確認している、と。その便の名

簿でマクドナルド下院議員の搭乗が確認されている、と。

 2 大韓機007便のチェン・ブェ・イン機長は洋上に着水して90分後に日本の成 田空港に無線連絡を行って、不時着の事実を確認した。

 3 米国太平洋艦隊の救助船は、大韓機の緊急事態をキャッチして、墜落予想地点に 向かったが、その数時間後にシュルツ国務長官からの命令で救助活動を断念して帰

還させられた。中止命令は全く意味不明の理由によるものだった。

 4 007便の航空路逸脱理由の調査をはじめたアンカレッジのジェイムス・ミケラ ンジェロ氏の活動を米国国務省は中止させた。その理由は、調査は国務省の管轄に

あるとするものだったが、その後になっても国務省が調査した形跡は全く無い。

 5 事故直後、樺太のソ連軍ラジオ局は大韓機が機内に用意した乗客の為の音楽テー プと同じテープを放送した(イズベスチャ紙)。

 6 ボイス・レコーダーを回収した潜水夫らは、機内の座席ベルトが締められていな い事に不審を抱いていた。

 7 乗客の所持品を整理した軍の将校を取材したイズベスチャ紙の記者は、軍人等の 言葉「後で処理しなければならなかった物品は、全て国際線旅客機ならどの機も積

んでいるようなガラクタばかりだった」、を聞かされた。

 

どうやら、KGBはマクドナルド議員の完全尋問を目論んでいて、議員を解放する意志が 全くない。その為に他の乗客も解放するわけにはいかなかったのだ。

シフリン等はそう結論づけている。

大韓航空機007便 撃墜事件 の真実を追う!

1983年9月1日
民間旅客機が領空侵犯により
戦闘機により撃墜された衝撃の事件である!

乗員乗客合わせて269人全員が死亡とされている!
だがしかし、生存者がいるという
話がある!
真実は?
乗客乗員の国籍 内訳
国籍人数
オーストラリアの旗オーストラリア2
カナダの旗カナダ8
ドミニカ共和国の旗ドミニカ共和国1
香港の旗香港12
インドの旗インド1
イランの旗イラン1
日本の旗日本28
韓国の旗韓国 76(乗客)
23(乗務員)
6 (デッドヘッド乗務員)
マレーシアの旗マレーシア1
フィリピンの旗フィリピン16
中華民国の旗中華民国(台湾)23
スウェーデンの旗スウェーデン1
タイの旗タイ5
イギリスの旗イギリス2
アメリカ合衆国の旗アメリカ合衆国62
ベトナムの旗ベトナム1
合計269

以下事件の真相を追い求めた、けして、表には出てこない話!

====以下転載====

大韓航空機撃墜事件について
プロローグ
 「例え1千年生きようとも、私はあの少女達の事を忘れない。
 私のこの膝の上で遊び、笑い、頬に口付けしたあの娘達。手を
 握り、投げキッスをしながら007便に乗り込んでいった少女
 達。愛らしい二人の少女、忘れようとしても忘れられるもので
 はない。何故、あの少女達が犠牲にならなければならないのだ
 ……」

 こう語ったのは、ジェシー・ヘルムズ上院議員だと云う。大韓航空007便がソ
連(当時)領空を侵犯し、撃墜されたあの事件についてのアメリカ上院での演説の
一部という訳である。奇しくもヘルムズ議員は、アンカレッジのトランジット・ラ
ウンジで007便の乗客と顔を合わせていた。彼が語ったグレンフェル家の娘、ス
テーシー(3歳)とノエル(5歳)の姉妹は、彼の機より14分早く飛び立つ問題
の機に乗り込んでいった。1983年8月31日午後9時20分、その機はアンカ
レッジ空港を飛び立った。それが、最後に目撃された007便の乗客達の元気の姿
だった。

 ところが、それから8年後の1991年、11歳と13歳になったステーシーと
ノエルが、ハバロフスクの第三医科大学構内の孤児院から何処かへ連れ去られた事
が判明した。なんと、姉妹は生きていたのである。

1章 早すぎた死亡宣告ーー大韓航空007便の乗員乗客達
(1) 誰も疑わなかった「007便」乗員乗客269名の死
●本当の謎は、何処にあったのか
 1983年9月1日未明、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航
空(KAL)007便ボーイング747ジャンボ機が樺太(サハリン)沖のモネロ
ン島上空で、ソ連戦闘機のミサイル攻撃により撃墜され、乗員乗客合わせて269
名が死亡ーー所謂”大韓航空機撃墜事件”を教科書風に述べると、おおむねこうな
る。
 16年目(1999年現在)を迎え、既に人々の記憶から遠くなった事件を何故
今さら、と思う人もいるかもしれない。確かに、公式的には決着がつけられ、既に
”過去の事件”とされている。しかし何年かおきに、思い出した様に、その謎がマ
スコミに姿を表して来る。
 当初から、謎の多い事件であった。其れらの謎は、今の所謎のまま残されている。
其れがジャーナリストの関心を呼ぶだろう。新しい所では、1998年10月に発
行された『ボイスレコーダー撃墜の証言ー大韓航空機事件15年目の真実』(小山
巌著・講談社)がある。同書の84ページにはこうある。

 「この事件の最大の謎は、大韓航空007便が何故正規のコ
 ースを大きく外れ、事もあろうにソビエト領土サハリン上空
 に迷い込んだのかにあった」

 何故、007便は撃墜されなければならなかったのか。何故、日本人乗客28名
を含む269名が犠牲にならなければならなかったのか。
 私の見る所、事件の謎は、この点に集約されるようだ。即ち、米ソ冷戦構造の中
で起こった悲劇、と言う訳である。当時のアメリカ大統領は、対ソ政策強硬派のタ
カ派として知られたレーガン、対するソ連共産党書記長は、KGB(国家保安委員
会)議長を務めた事もあるアンドロポフ。東西両陣営が対峙し、8年後の1991
年に起こるソ連崩壊等、誰もが予想だにしていなかった頃である。
 但し、この本で私は、こうした大韓航空機事件の謎を追うつもりはない。世界を
見る角度を変えてみれば、事件の首謀者は明らかであり、そこには謎はないからで
ある。しかも、そこには事件を隠蔽しようとする明確な”意思”が働いており、虚
偽が伝えられて来た事は確かなのである。
 その最大のものが、「乗員乗客全員死亡」という”事実”である。これは動かし
がたい事実とされているが、実はそうではない。
 何故、そうした事が行なわれているのか。今、私がこの事件を取り上げるのは、
その”意思”が、「グローバル・スタンダード」等で大揺れに揺れている日本の
今後のあり方にも繋がるからである。

●死亡宣告を下したシュルツ発表
「269人乗り大韓航空機、サハリン付近で不明」
 事件の第一報を伝える朝日新聞第一面の見出しである(1983年9月1日夕刊)。
「ソ連が着陸を強制?」「撃墜説や乗っ取り説も」と云う見出しも躍っている。
 記事を見ていくと、ソウル特派員報として、「韓国外務省一日午前10時半過ぎ、
同日未明から行方不明になっていた大韓航空007便ニューヨーク発ソウル行きボー
イング747機が『ソ連サハリン(ユジノサハリンスク空港と見られる)に強制着陸
させられたとの第三国からの非公式通告を受けた』と発表した」と云う内容も見られ
る。この時点では、未だ乗員乗客の生存の可能性は残っていた訳だ。
 しかし、一夜明けた9月2日の朝刊では、一転して「大韓航空機、ソ連が撃墜」と
いう見出しに変わる。「迎撃、ミサイル発射」「269人全員が死亡」と。
 これは、事件当日、アメリカ時間午前10時40分(日本時間では一日午後11時
40分)のテレビ会見で、レーガン政権の国務長官ジョージ・プラッツ・シュルツが
発表した内容に基づいていた。同長官は、007便は「ミグ23と見られるソ連軍機
によって撃墜」されたと発表、「ミグ23とソ連軍地上局との無線交信を傍受してい
た事を明らかにする共に、『ソ連のパイロットはミサイルを発射し、目標は破壊され
たと報告した』と(同長官は)述べた」(朝日新聞・1983年9月2日朝刊)
 この公式発表が、事実上の乗員乗客の死亡宣告である。一日の午前3時29分に航
空自衛隊のレーダーから、007便と見られる機影が消えてから20時間11分後の
事である。
 同一日の共同電によると、「デクエヤル国連事務総長は事件の推移を詳しく見守っ
ている。民間人の命が失われた事を深く悲しんでいる」と、国連も、乗員乗客の死亡
を”承認”している。
 明けて9月2日、撃墜=機体破壊を信じて疑わなかったのがロンドンの保険業界で、
朝日新聞9月3日の夕刊記事はこう報じた。「2日、ロンドンの保険業界筋が明らか
にした所によると、007便の機体に対する保険金は最低3500万ドル(約88億
円)になる。戦争リスクを含む全ての危険に対して掛けられたという」
 又2日のタス通信は、その声明文の中で、「権限を与えられたタス通信は、ソ連指
導部内で、人命が失われた事に対して遺憾の意が表明されている事を公表し」と述べ
ている。
 9月6日になると、ソ連政府は、「罪の無い人々の死に弔意を表明し、その遺族、
友人と悲しみを分かち合うものである」との声明を発表した。

●異常に早かった保険金の支払い
 更に9月14日の朝日新聞朝刊によれば、「13日、ロンドンの保険会社スチュワ
ート・ライトソン社は、007便の大韓航空機に掛けられていた戦時保険金2682
万4000ドル(約65億円)を同日大韓航空に支払ったと発表した」
 因みに、全日空広報マンによれば、この保険金の支払いは異常な早さだと云う。通
常は、機体破損の”事故”から保険金がおりるまで数年は掛かる、と云うのがこの業
界の常識なのだそうだ。
 さて、ミサイルによって大韓航空機が撃墜され、破壊された事が、この保険金支払
いによって”事実”となる。当然の事ながら、機内の人間が生存出来たとは考えられ
ない。これで乗員乗客の死は完璧に認められた。
 駄目押しは、ICAO(国際民間航空機関)が、83年12月、事件の当事国に配
布した最終報告書だ。ICAOは国連の専門機関で1947年に設立され、世界の航
空輸送の安全を図る機関である。現在185ヶ国が加盟しており、その調査結論は国
際的な権威を持つと云われている。この事件の調査もICAOが担当総括した。その
権威ある事故調査機関の結論は、「パイロットの操縦ミスが大韓機の撃墜に繋がった
(全員死亡した)」である。
 事件を巡って、激しい非難の応酬が米ソ間が飛び交った。
「殺ったのはそっちだろう」
「007便が決められたコースを外れて飛行していたからだ」
「それにしても行き成り撃墜は酷い」
「いや、警告したのに、相手が無視したからだ」
 実際は、もう少し体裁をつけた言い回しが用いられたが、煎じ詰めれば、こんなや
り取りになる。そこでは、無論乗員乗客の存否等問題外だった。
 こうして、事件発生から3ヶ月後の12月には、事件の真相は兎も角、269人は
全員死んだとして手仕舞いされたのだ。
 事件から3年後の86年8月23日、ニューヨーク・タイムズが翌月発売の月刊誌
『アトランティック・マンスリー』の記事を紹介したが、ことは更なる駄目押しだっ
た。大韓航空機撃墜事件は、ソ連が米軍偵察機と誤認したまま攻撃したものだった事、
同機のソ連領侵入は乗員がINS(慣性航法装置)の操作を誤ったからだ、と云うそ
の記事を執筆した人物は、元ニューヨーク・タイムズ紙の花形記者セイモア・M・ハ
ーシュである。彼は事件に関する著書を纏め、日本でもその翻訳版が出版された。タ
イトルは『目標は撃墜された』(篠田豊訳・文藝春秋・1986年)。その中で、ハ
ーシュはこう書いている。

 「007便が攻撃を受けた時、乗客達は眠りに就いていたか、
 或いは眠ろうとしていただろう。最後の12分は、当に地獄
 だったに違いない。客室は、ミサイルの直撃を受けたにしろ、
 ミサイルの破片で破壊されたにしろ、減圧され、室温も急激
 に下がる。シートベルトをしたままミサイルか機体の破片で
 破壊されたにしろ、減圧され、室温も急激に下がる。シート
 ベルトをしたままミサイルか機体の破片を受け即死した乗客。
 恐怖に震えながらそれを見つめる他の乗客。最初の一撃から
 生き残ってしまった人こそが、最も苦痛を味わった事だろう。
 ……乗客の多くが最初のミサイル攻撃から生き残って毛布で
 身を包み酸素マスクで呼吸しながら、海へ落ちていった。や
 がて自分達が死ぬ事を知りながらーー」(セイモア・M・ハ
 ーシュ『目標は撃墜された』47~48頁)

 ハーシュも、大韓航空007便は破壊され乗員乗客は全員死んだ、と断定した一人
だった。
 こうして269名の「死」は、推理の中でさえも、紛れもない事実として人々の胸
の内に納まった。
 だが、これらの死亡宣告はいささか早すぎた。

(2) 乗客達のその後を”追跡”する
●シベリアでの、ある”接触”
 1990年8月、3名の”追跡者”がモスクワから2000キロ離れたシベリアの
寒村へと向った。彼等の目的は、北方民族のネネッツ(nenets)族の居住地域に住む
一人の女性に接触する事にあった。
 その女性は、撃墜された大韓航空機の乗客であるとの情報が入っていた。83年の
事件後の彼女の足取りは、断片的にだが、辿られている。
 彼女には片腕がない。これは”撃墜”の時の負傷ではなく、アムール川(黒龍江)
に近いシベリア鉄道ティンダ駅近くの収容所で、材木の伐採作業に従事させられてい
た時に、誤って機械で左腕の肘の辺りを切断したといわれている。それが1985年、
事件があった83年から2年後の事である。
 その後、彼女はタゾフスカヤ・クーバ湾に接するナホトカ村に移された。そこはヤ
ーマロ・ネネッツ自治管区北部にあり、ネネッツ族の20~30家族が住む小さな漁
村である。
 一年の半分以上、太陽が出ない北極圏のその村は、他の地域とは全く隔絶されてい
る。永久凍土を覆う深い針葉樹林帯(タイガ)に道路はない。一年間の殆どが陽光と
は無縁で、万年雪が溶けないからだ。そこへの交通手段は、ヘリコプターが、汽船に
限られていた。しかも汽船が使えるのは、夏の8月の一ヶ月間だけ、という極短い期
間でしかない。
 外から近付くのが困難だと云う事は、そこから外に出るのも又困難だという事であ
る。適切な交通手段や武器等の装備なくしては、鉄道や幹線道路のある所に辿り着く
前に、凍死するか、タイガに潜む獣達の餌食になるのがオチである。しかも、村を監
視するKGBの人間もいる。
 ウラル山脈の東に広がる広大なシベリアには、こうした天然の流刑地が幾らでもあ
る。高度な解像度を誇る偵察衛星のカメラを持ってしても、それらの全てを把握する
事は困難で、まして、そこに住む人まで特定するのは不可能であろう。間もなく21
世紀になろうという今日でも、外部との接触を全く絶たれたそういう土地に放り込ま
れたら、社会的にはその存在が抹消されたも同然で、後は細々と命を繋いでいくしか
ない。
 そんな村に住む1人の女性の行方が良く突き止められたものだが、その女性との
”接触”が命懸けである事は間違い無かった。政府の許可証を持たずに、ヘリコプタ
ー等をチャーターする事は、恐らくソ連政府が完全に機能している時代だったら全く
不可能だったろう。しかし、時代はゴルバチョフのペレストロイカ(改革)で官僚の
統制が緩み、ソ連の体制そのものが崩壊に向っていたから、交通手段の確保はどうや
ら出来るようにはなっていた。
 唯、何として村まで辿り着けたとしても、KGBの監視人が森林の奥から目を光ら
せている。社会全体が混乱しているとはいえ、KGBの鉄の規律は厳として守られて
いる。若し、彼等と出会えば入城許可証を求められ、そこで面倒を起こせば、おそら
くその場で射殺され、森の中に捨てられる事になる……。
 最初、この追跡行を志願したものは誰もいなかった。生きて戻るのも危ぶまれる旅
だからだ。しかし、命知らずの3人が志願して追跡は敢行された。二人のイスラエル
人(ユダヤ人)と一人のロシア人がその勇気ある三人だった。
 2000キロ先にいる女性を確認する為に、彼等は飛行機、ヘリコプター、蒸気汽
船、モーターボートを乗り継いでネネッツ族の村落に辿り付き、彼女と面談した。

●彼女は、誰だったのか
「ウォッカはないのか」
 彼女を含めた村人達は、追跡者が持参した土産には何の関心も示さず、唯々ウォッ
カだけを欲しかった。彼等の主食は魚だが、その魚の一部を何を通過する蒸気船の船
員に売って酒に変えていた。物々交換で手に入れたウォッカだけが、一年の内半年以
上太陽が見られず、極寒が続く中で暮らす彼等の体全体を暖めてくれるのだ。
 彼等と追跡者の間には会話も無く、沈黙が続いた。捜し当てたその女性は自分が誰
なのかを知らなかった。記憶を喪失していたのである。自分の名前は勿論の事、生い
立ちや、その後のあらゆる過去の出来事を何も覚えていなかった。これは、おそらく
”治療”によるものだろう。この”治療”についても、後で述べる。
 村人達は多少ロシア語を解したが、その口は重かった。KGBからお喋りを禁じら
れている事が、追跡者達にも分った。女性の顔は、既に地元の人々と良く似ていて、
その表情は元々ネネッツ族生まれの人間のようにさえ見えた。
 こうして”接触”は終わった。追跡者達は無事生還出来たが、その女性が大韓航空
007便の乗客である証拠は何も得られないままだった。
 彼女が、追跡者達と会った直後、KGBの手で何処かへ連れ去られた事を、後に追
跡者達は知らされた。

●漏れてきた強制収容所からの情報
 大韓航空機撃墜事件で”生存者”がいたとする話を私が耳にしたのは1994年頃
だった。その3、4年前に、モスクワでKGB高官等と2週間程過ごす機会があった。
それは、70年も続いたソ連体制が崩壊の危機から逃れられなくなっていた時期だっ
た。”個人の勝手”がモスクワ市内の随所で一人歩きして、其れが街頭に溢れていた。
食料等の生活物資が不足し、高騰した。公務員の給料は遅配が続き、彼方此方で不満
の声が上がっていた。
 「家族の為にも何とか食い扶持を確保しなければ」と筆者の知人であるKGB大佐
は、スペインワインとソ連の木材の物々交換を考えていた。テーブルの右側には木材
輸出許可申請書を置き、左側にワインの輸入許可書を置き、夫々の書類にサインをす
るのである。早い話が、自分で申請を出し、自分で許可を出す”自作自演の商売”で
ある。「上の連中(ゴルバチョフ、KGB長官等の共産党大韓部)は何を考えている
のやら」そう吐き捨てながら、彼はせっせとペンを走らせていた。
 そうした状況を目の辺りにしていただけに、ソ連の分厚い壁の向こうに隠されてい
た秘密が漏れ出て来る事は十分に頷けた。だから、日本に住む知人が囁いてくれた追
跡者達の活動には信憑性を覚えたのである。
 追跡者達が大韓航空機撃墜事件の”生存者”達を巡る調査報道を本格的に始めたの
は1989年からだが、実際には89年以前から情報が入って来ていたと云う。グラ
スノスチ(情報公開)の波が、加勢してくれた。彼等によれば、情報源は、ロシアン・
マフィアやKGBの密告者達だと云う。ソ連政府に不満を抱く人達が内通して来たの
だ。こうした”タレ込み”の中に、あの片腕を失った女性の存在も浮かんで来たのだ
った。
 ところで、最も信頼出来る情報源は、ソ連各地にある強制収容所の囚人や看守達か
もしれない。彼等は、”生存者”と極近い距離で生活し、その姿も見ている。追跡者
達は、そうした情報源を”我々の地下チャンネル”と呼んでいた。

●生存者調査グループの本拠地イスラエルにあった
 大韓航空007便の乗客の行方を追跡する調査グループの本拠地は、イスラエルの
エルサレム市内にある。調査グループの指揮官の名は、アブラハム・シフリン。ソ連
からイスラエルに移住して来たユダヤ人である。その調査機関は、「強制労働収容所・
精神矯正収容所リサーチセンター」と名付けられている。
 ソビエト・ロシアの20世紀は、監獄の時代だった。革命後のソビエトは、近代化
を図る為に大量の労働力を必要とした。その労働力に見合う数の強制労働収容所を設
け、効率の良い管理成果を証明した。革命政府特有の恐怖政治が、”監獄効果”を倍
増させた。又、強制収容所では政治犯等の”洗脳”も行われた。だからこそ、エルサ
レムにあるリサーチセンターでは、「強制労働収容所」と「精神矯正収容所」とを上
げている訳だ。
 50余年前の第二次世界大戦中にソ連の全強制労働収容所で死んだロシア人の囚人
は、1200万人。戦後も、今に至るまで、1000万人が収容所詰まり監獄に閉じ
込められていると、複数の専門家は言う。
 シフリンも、かってはこの囚人の一人だった。1953年に、スターリン暗殺未遂
事件にかこつけたユダヤ人狩りで当局に逮捕されたシフリンは、レフォルトボ監獄の
独房での体験を未だ強烈に覚えている。奥行き120センチ。横幅150センチの独
房である。その独房の床は、12センチ程の深さの泥水で覆われていた。その中で、
28日間、彼は殆どしゃがんで眠り続けた。ベッド無しのその独房では、壁に寄り掛
かって寝るか、しゃがんで寝るしかなかったのだ。忘れようとて忘れられない記憶で
ある。
 この独房に収容される前は、シフリンは、モスクワのKGB本部にあるルビヤンカ
監獄で25日間を過ごした。6人の尋問官が日夜交代で尋問に当たったから、シフリ
ンには眠る間がない。直立不動の姿勢で、休憩時間もない取り調べに耐えた。気を失
って倒れたりすると、その都度冷水を頭から浴びせられた。
 レフォルド監獄から次のブトイルギー監獄に移され、シフリンは軍法会議の結果を
待った。判決は死刑だった。罪状は、アメリカとイスラエルのスパイとされていた。
 レフォルトボ監獄の死刑執行時刻は、毎日午後11時。シフリンは、来る夜も来る
夜も耳を澄ませ、執行官の靴音に脅え続けた。が幸運にも死刑執行を免れ、25年の
強制労働に減刑された。そして更に、5年の流刑と、5年間の市民権剥奪へと大幅に
減刑された。
 このシフリンの過酷な体験は、スパイ小説作家として有名なブライアン・フリーマ
ントルの『KGB』でも紹介されている。尚、この『KGB』は、フリーマントルが
1982年に出したノンフィクションで、日本では新潮社から出版されている。
 こうして強制収容所と云う地獄から生還したシフリンは、イスラエルへと移住する。
帝政時代からロシアには多くのユダヤ人が住みついていたが、ソビエト時代になって
からもユダヤ人達は迫害を受けていた。イスラエルが建国されて以来、多くのユダヤ
人がソ連を逃れて移住して来ている。
 そのシフリンが理事長を務める「強制労働収容所・精神矯正収容所リサーチセンタ
ー」は、仰々しいその名称とは裏腹に、組織の構成員数や活動内容の詳細等は、明ら
かにされていない。

●マスコミには取り上げられなかった「シフリン・レポート」
「大韓航空007便の乗客は生存している」
 日本に住む知人から囁かれたこの情報を、更に詳しく伝える新聞があった。アメリ
カにある基督教団体の機関紙『ミッドナイト・メッセンジャー』(1994年1・2
月合併号)だ。そこには、93年までの追跡活動の顛末を纏めた「シフリン・レポー
ト」が掲載されていた。
 どんなメディアであろうと、そこで伝えられているものに接する時は注意を要する。
何故、其れが取り上げられたのか。事実を伝える際に、何らかのバイアスが掛けられて
いないか。特に、宗教関係のメディアの場合、宗教団体特有の頭ごなしの主張やら助言
等で、事実が大きく歪められてしまう事も多い。
 しかし、くだんのミッドナイト・ジャーナルのシフリン・レポートの扱いは、勢い込
む私に肩透かしを食らわせるかのようで、誠に素っ気無かった。つまり、その全文を掲
載するのみで、コメント類はもとより、目を見張るような見出しも何も付け加えられて
いなかった。
 007便の乗客が生存していたと云うニュースは、恐らく世界的なスクープの筈。各
国の新聞や雑誌に大見出しで取り上げられても、少しも可笑しくはない。だのに、この
シフリン・レポートをまともに取り上げたのは、一宗教団体の機関紙に過ぎないミッド
ナイト・メッセンジャーのみらしい。何故、世界のマスコミはシフリン・レポートを無
視したのか。ともあれ、その詳細は後で綴る事にしよう。

●シフリンへの接触
 ミッドナイト・メッセンジャーを読み、シフリンの調査グループへの私の興味は倍加
した。93年以降の活動は続いているのか、それとも追跡は断念したのか。
 そうした現況を知る為にも、生存者情報を囁いてくれた先の知人の手を煩わせてシフ
リン宛に連絡した。モスクワのあの彼(KGB大佐)に確かめる方法もあった。だが、
シフリンとやり取りを交わした後に、そうしたモスクワ当局からの情報入手は、シフリ
ンを不愉快にさせるかもしれなかった。と同時に、モスクワの彼にも迷惑を掛けられな
い。そこで、接触はシフリンとの直接対話のみに絞る事にした。
 しわがれて腹の据わったシフリンの太い声を受話器の向こうから聞かされるまで、5
分も掛かった。それまでに、何人もの男達のドスの効いた低音が入れ代わり立ち代わり
電話口に出た挙げ句に、漸くシフリンに取り次がれたからだ。
 シフリンが直接電話口に出ない理由は良く分る。声だけの電話では、相手が誰だか確
認出来ないし、盗聴される懸念もあるからだ。シフリンのような活動をしている場合、
一般人を装ったスパイ、詰まり情報機関の専門用語でいう所の「スリーパー」や「もぐ
ら」の接近には常に気を配る必要がある。シフリン達の調査活動も、見るところ、人権
擁護を謳うアムネスティ等と、その精神において何ら変わる所はなさそうだ。しかし、
世間でいう”人道的行為”も、身を入れ過ぎると、楽は出来なくなる。

 「(家内と一緒に東京に)行ってもいいが、お前が(エルサレ
 ムに)来い。但し、家の補修工事をしなくちゃならんから、来
 る時間はもう少し後の方がいい」

 シフリンは、電話口でそう呟いた。
 シフリンとの会話の詳細を明かす事は種々の事情から出来ないが、彼等の活動につい
ての更なる情報を得る事は出来た。

●ソ連に”救出”された乗員乗客達
 シフリン・レポートによれば、ミサイルによって攻撃された筈の大韓航空007便に
ついて、その機体処置、乗員乗客の扱いとその消息等、追跡者達が突き止めた”事実”
は次のようなものである。
 ソ連軍戦闘機によって攻撃された同機は、サハリンに接するモネロン島(海馬島)沖
に着水。機体はほぼ無事で、そのまま沈みもせず、暗い波間に浮かび続けた。
 その洋上の機体に、KGBの沿岸警備艇が接近、機体の中にいた乗員乗客は、警備艇
に乗り移った。無人になった機体は、深度の浅い海域へと警備艇に曳航され、そこで爆
破され、海底に沈められた。
 サハリン島のKGB基地の警備艇に乗せられた乗員乗客は、本土のKGB管轄C区域
のソブガバン(シフリン・レポートではSovgavanと表記)基地へと、9月4日
までに全員が運ばれた。沿海州のソビエツカヤガバニである。
 子供達は其処で両親と離され、成人男女も別々に分離された。グループ別にティンダ
に向けて移送された。
 あの3歳のスレテーシーと5歳のノエルは、ソブガバンに設けられた臨時の孤児収容
所に他の子供達と収容された。同年10月を過ぎてから其処を出て、ウラジオストック、
オムスク、バマウル(Bamaul)、そしてカザフ共和国(現カザフスタン)の孤児
収容所へと送られた。
 分離させられた成人男女が、ティンダ駅から何処の収容所へ送られたかは不明である。
但し、成人男子の場合はアムール川奥地のタイガに散在する戦犯収容所に送られた可能
性があった。
 そこは第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の将兵や政治犯が戦犯として
収容されている捕虜収容所である。所謂外国人捕虜収容所である事から、大韓航空機の
成人男子乗員乗客が収容されているらしいという情報が、追跡者の現地友人から届いて
いた。
 1993年夏に届いたその友人(2名)による追跡情報によれば、彼等は収容所に近
付く為に、鉄道路(イルクーツク~ハバロフスク間、バイカル・アムール鉄道)を使っ
た。しかし、KGBと軍が管理するエロフェイ・パブロビッチ駅の検問所でこの地域へ
の通行許可書を提示するよう求められた事から、二人はアプローチを変えてアムール川
沿いの上流にあるブラゴベシチェンスク地域から侵入しようとした。しかし、ここでも
再び検問に遭い、入域許可書を求められ、其れ以上の接近は断念せざるを得なかった。
 地元民の話では、このタイガ地域を走る道路はないから、誰も問題の地域内に入り込
む事は出来ないという。其れに、アムール川沿岸に住む住民でさえ、入城には特別許可
証が必要で、手続きも面倒なのだという。
 だが二人は、目的地域には間違いなく予想通りの収容所が存在する事だけは確認出来
た。
 其処に特別な収容所があるらしいと云う情報は、ルーマニア国籍のドイツ人陸軍将校
の尋問記録から齎されていた。この将校は、この地域の別な収容所に収監されていたが、
1976年から77年に掛けて起きた大洪水にまぎれて収容所から脱出するのに成功し、
中国、インド、スイス経由で祖国に生還した。その逃亡過程で、このアムール川沿いの
タイガに管理厳重な秘密収容所があるのを知ったというものだった。その情報が確かな
ものである事を、この二人は確認した訳である。
 どれほど厳重に封印された秘密でも、其処に秘密が存在していると云う事までは隠し
切れないのである。

●特別待遇を受けたマクドナルド議員
 007便には、日本人28名を含む、16ヶ国269名の乗客がいたが、その中にロ
ーレンス(ラリー)・パットン・マクドナルド米下院議員(民主党)がいた。このマク
ドナルド議員の足跡も、シフリンの追跡グループは追っている。
 マクドナルド議員は、ソブガバン基地に連行された他の乗員乗客とは異なり、KGB
が特別に仕立てた飛行機でハバロフスク経由でモスクワに送られた。9月8日の事だっ
た。市内のKGB監獄ルボヤンカで尋問を受けたが、この時同議員は「囚人(プリズナ
ー)ナンバー3」と呼ばれていた。その後はかってシフリンも収容されたレフォルトボ
収容所に収監された。
 マクドナルド議員は、レフォルトボ監獄に数ヶ月間に亙って収容され尋問を受けた後、
今度はモスクワ近郊のスハノーファーにあるKGBのダッカ(夏季保養所)に身柄を移
された。その後、カザフ共和国のカラガンダ監獄へと移された。尋問は続くが、この頃
にはKGB得意の”治療”が効いたのか、マクドナルド議員は自分が誰なのかを忘れて
しまっていたようだ。
 此れ等の情報をシフリンは、「KGB及びモスクワ・マフィアとコネクションがある
某国情報部筋」から入手している。情報筋によれば、議員はカラガンダ監獄から、カラ
ガンダに隣接する町テミールタウ北部にある小さな収容所に送られた。ここでの待遇は
格別だったようだ。
 ”治療効果”と連日の尋問で心身衰弱したマクドナルド議員だが、カザフスタンの収
容所では、毎日市内のレストランから運び込まれる食事を摂らされた。白いパンも食べ
放題だった。二階にある完全隔離の部屋には、テーブルが一つとスプリング付きのマッ
トレスが一台、他の調度品は何もないが、電球だけは一際明るいものに替えられた。但
し、収容所の他の囚人達と顔を合わせても、会話は一切許されなかった。
 1993年には、収容所看守からの情報も得た。その情報によれば、

 「看守は議員の姿をコンピュータ画面で見ていた。画面に映し出さ
 た米国人はマクドナルド議員に間違いなかった。議員はカラガンダ
 監獄からライトバンで運ばれてい来た。厳重に封印された。茶封筒
 には、議員のおそらくプロファイリングが入っていたようだ。議員
 は 毎週散歩するよう義務付けられていた。毎週一日だけカラガン
 ダ監獄からKGBの担当官(将校)が来て尋問を続けた。担当官は
 収容所の囚人全員の変化をテェック、囚人間の会話を厳禁した。毎
 度同じそれらの仕事が繰り返されている……」
 「1987年にはカラガンダ監獄からカザフのその小さな収容所へ
 護送される議員の姿が確認された。KGBの監視は徹底ぶりを極め
 ていたから、その囚人(議員)は特別な虜囚に違いないと収容所内
 の誰もが密かに噂しあった。注目を集めていただけに議員の動向は
 把握しやすかった……」

 シフリン達は、議員とおぼしき人物の写真を看守から入手している。

●強制収容所で行われる”治療”の実態
 マクドナルド議員や北極圏に住むあの女性が施された”治療”とは、一体何の事なの
か。其れを知る為には、シフリンも経験したソ連の収容所事情を理解しておく必要があ
る。
「身の毛もよだつ」ーーフリーマントルはソ連の強制労働収容所の実態を、その著書
『KGB』でそう表現し、その実情を以下の様に記している。

 「(収容所の作業)ノルマは一日最低12時間制で、しばしば16
 時間まで延長された。ノルマを達成した囚人には800グラムのパ
 ンが配給される。達成出来なかった者は500グラムに減配された。
 又懲罰の一方法として食糧は更にカットされた。
  300gは飢餓を意味する。囚人は潤滑剤のグリース、苔、それ
 に幾ら悪臭を放ち、腐っていようと動物の死肉まで食べた。一日8
 時間の重労働に従う人間が摂取しなければならない最低の公認カロ
 リーは、3100gから3900gである。1977年になっても、
 管理の厳しい収容所でさえ、一日平均の摂取カロリーは2600に
 過ぎなかった。懲罰を受けると2100、重懲罰は1300に減ら
 された。
  スターリン時代に建てられたコルイマ収容所では、ビタミン不足
 による壊血病を防ぐ為、松葉や潅木種の柳の葉を漬けた水を飲まさ
 れた。シラミや害虫の繁殖もすごく、発疹チフスが続発した」
 (フリーマントル著・新庄哲夫訳『KGB』新潮社・1983年、
 206頁より)

 一方、元英国情報部将校ジョン・コールマン博士は、1947年にアメリカ亡命を果
たしたKGB工作員が漏らした情報だと断った上で、ソ連強制労働収容所の全体図を次
の様に説明する。

 「モスクワ周辺には、41の犯罪者収容所機関がある。この地区に
 は異なった段階の20の強制収容所がある。例えば、スハノボ、オ
 ビロフカ、ヤベモエ、それにルビヤンカ監獄等である。モスクワ市
 内には10ヶ所の『精神病』監獄院がある。そこではどんな拷問方
 法にも口を割らない囚人に口を開かせる方法が使われている。
  監獄当局はそれを『治療』と呼び、強力な麻酔薬を使う手術や脳
 の前葉切開手術で囚人を狂人にしてしまうやり方なのである。これ
 らの精神病監獄院はクレムリンに近いエリアにある。西側の訪問者
 によるエリアへの立ち入りは厳禁されている。
  女性と子供用の収容所は全部で119ヶ所ある。モスクワの南3
 50キロの地域にあるオリヨール市にも子供用の強制収容所がある。
  内部の生活は苦しく、子供達は年齢や能力を超える手作業を強い
 られている。冬季には『検査』が頻繁に実行され、母子達は気温零
 下の下で、しかも夏服で長い間立ち続けるよう強制される。収容所
 の死亡率は年間約33%と云われる」(ジョン・コールマン著『ソ
 連強制収容所における人権』歴史情報研究所刊『歴史叢書』No1
 6・1988年)

 収容所に用意されたものは、確実な死と過酷な環境である。そして、収容所の存在理
由は、政治と宗教が絡む厄介な難問、それに労働力不足を解決する為であった。
 大韓航空007便事件より5年前の1978年4月21日、所謂ムルマンスク事件が
起こっている、これは、パリ発ソウル行き大韓航空902便がソ連領空を侵犯し、ソ連
戦闘機のミサイル攻撃を受け、ムスマンスク近くの凍結した湖に強制着陸させられた、
と云う事件である。007便のケースと良く似ているが、この時はアメリカ側も強制着
陸させられた事を即座に発表した。着陸の衝撃で二名の乗客が死亡したものの、残りの
乗員乗客は機長と航法士以外は3日後に送還されたのである。
 このムルマンスク事件では、乗客の生存が明らかにされたのでソ連も好き勝手は出来
なかったが、アメリカや国連から早々と死亡宣告を受けた今回の007便のケースは違
った。今度ばかりはどうやら、乗員乗客は理不尽な運命を受け入れざるを得なかったよ
うである。
 その後、ソ連邦は崩壊し、体制は変わったかのように見えるが、今も尚この国の「人
権」と云う言葉が死語に等しいと云う点では、何も変わっていないようだ。

●007便乗客収容作戦にあたった将軍は消えた
 残念ながら、マクドナルド議員の現在の消息(1999年当時、今も自分は分らない!愛)
は不明である。
 しかし、1989年頃から本格調査を始めたシフリン達の手元には、大韓機は撃墜されず、
洋上に緊急着水した、乗員乗客は救助され、収容所に分散収容された、等などの決定的証拠
と目撃証言が、たっぷりと集まっていた。例えば、モネロン島に近いサハリン(島)の町、
ネベリスクの複数の漁師達は、9月1日に洋上に着水した機体から乗員乗客達が救助される
場面を繰り返し伝えて来ていた。
 収容所で散々痛めつけられて来たソ連各地の収容所体験者、KGBから迫害されて来たユ
ーラシア大陸の様々な諸民族、大都会のモスクワに住み党運営に不満を抱く者、職場や国家
政策に不満を感じているKGB局員や監獄の看守、ロシアン・マフィア、007便のボイス
レコーダーを回収した潜水夫、その回収船に乗船していた複数の国家調査委員会のメンバー
等などが、情報を直接又は間接的に秘かにシフリンのセンターに知らせてくれた。こうした
草の根からの第一次情報は、米ソ両政府当局がシフリン達の活動を感知する以前に殆ど入手
ずみだった。
 知るべき事を知ってしまったシフリン達に残された最後の宿題は、007便の生存者を例
え一人でも救助する、その一点に尽きていた。
 しかしその一方で、シフリン達の身にも危機が忍び寄っている。
 例えば、大韓機の緊急着水から乗員乗客の収容、機体内キャビンの荷物処理等の一連の秘
密作業を総指揮したロマネンコ将軍は、”自殺”に追い込まれている。将軍は、KGBがシ
フリン・グループの活動について情報管理する中で、現地情報がシフリン達に漏れ出てしま
った事が明らかになり、その責任を負わされたのだろう。
 CIAは「ロマネンコ将軍は収容所に隔離された」と主張しているが、シフリンの情報チ
ャンネルによれば、将軍は東ベルリンのソ連大使館付き武官に栄転した後に同地で自殺して
おり、その事実は1992年9月のソ連紙コムソモルスカヤ・プラウダの紙面で確認された
と云う。
 更に、ロマネンコ将軍に関する全ての情報がKGBのプロファイリング(コンピュータ管
理された人物像)から削除されている、とシフリンは云う。これにより、ソ連軍部にロマネ
ンコ将軍なる人物がいたと云う記録は、一切残らなくなった。つまり、そんな人物は、過去、
全く存在しなかった事になったのである。将軍は、文字通り、何の痕跡も残さずに消されて
しまったのだ。
 イスラエルにいるシフリンとセンターのメンバー、それにロシアから情報を送り続ける市
民等が、ロマネンコ将軍の二の舞いにならないと云う保障はない。007便乗客の追跡調査
が命懸けだという理由はここにもある。

2章 伝えられなかった生存者情報ーー真実を明かされて困るのは誰か
(3)握り潰された「007便生存者情報」
●生存者を救出せよ
 ミサイル攻撃で撃墜され、全員死亡とされた大韓航空(KAL)007便の乗客は、どう
やら生存していた。
 だが、ロシア側(市民や亡命者、それに移住者達)から齎される情報の確認活動は困難を
極めた。先ず資金の問題があった。幾つかの機関や匿名のアメリカ人による資金援助等があ
ったが、そうした支援金は直ぐに底をついた。しかし、ボランティアでシベリア大陸を歩き
回る余裕のある人間など、エルサレム(シフリン)のリサーチセンターにはいない。ソ連か
らイスラエルへ政治亡命、難民移住するユダヤ系ロシア人は大勢いたが、例えば移動に私財
の殆どをはたいてイスラエルの土を踏もうとする人達に、調査の為に回れ右をして戻ってく
れ、とは、中々言いづらい。しかも、厳しい監視の目を盗んでソ連内で調査活動をする事は、
悪くすれば死か強制労働収容所送りの危険性と隣り合わせである……。
 そうした苦労を積み重ねて、生存者の確証を得て来たシフリン達にとって、次の課題は生
存者の救出だった。だが、人間の救出作戦となると、幾ら”向こう”に協力者がいても、シ
フリン・グループのような”民間団体”の手には負えない。
 最も効果的なのは、アメリカ政府を動かして生存者返還の交渉をさせる事、そして世界の
マスコミを通じてソ連政府に圧力を掛ける事だ。シフリン達がこう考えたのは無理もない。
007便のアメリカ人乗客は62名、内一人は下院議員である。生存情報が伝われば、アメ
リカもその威信を掛けて、ソ連当局に生存者の送還を迫るに違いない……。
 シフリンが、乗員乗客生存調査事実を最初に訴えたのが、1990年。あのアメリカ上院
議員ジェシー・ヘルムズ(共和党・ノースカロライナ州選出)に対してだった。
 ヘルムズ議員は、産経新聞が伝えるプロフィールによれば、「米保守派の大物」で、「ソ
連、中国等共産主義国に対し常に強硬な立場を主張している人物。米国社会に根強い保守の
潮流の代表的イデオローグであるばかりでなく、図抜けた政治資金収集力によって、議会内
で強い影響力を保持している」(産経新聞1983年9月8日)
 その大物ぶりは、「ヘルムズが独自に議会に提出した修正法案や決議案は1979年で3
9件、80年で44件、夫々の6割以上を成立させる事が出来た」(『財界』1983年4
月5日号)事からも分るというものだ。
 又、ヘルムズ議員は親イスラエル派としても知られていた。コールマン博士によれば、ヘ
ルムズ議員は、「『イスラエルよ、我が祖国、正しくとも邪悪なりとも』と云う格言を信じ
るキリスト教根本主義者達から慕われていた」と云う(聖書を正しく読んでいない!愛)。
 しかも、ヘルムズ議員は当初、8月31日ニューヨーク発の問題の007便に塔乗を予約
していた。9月1日から3日に掛けてソウルで開かれる米韓安保関係会議に出席する為であ
ったが、同議員は数日前になって、31日ロサンゼルス発アンカレッジ経由ソウル行きの大
韓航空015便に変更し、難を逃れていた。
 このヘルムズ議員に、シフリンはワシントンに訴える窓口として白羽の矢を立てたのであ
る。

●渡された証拠
 シフリンがヘルムズ議員に007便生存者情報を送った後、「この件を確認した」とヘル
ムズ議員側から伝えて来たのは1990年11月だった。そして、もっと詳細を知りたいと
伝えて来たのが翌91年の5月だった。
 ヘルムズ議員の側近幹部と称する3人の男達がエルサレムのシフリンを訪ねて来た。J・
シェル博士、サリバン博士、そしてV・ヘディと名乗る人物達は、シフリンの調査結果を
具に見聞した。
 ヘルムズ議員の協力を信じて疑わないシフリンは、その為に苦労してソ連から特別に招い
た収容所看守2名を、証人として彼等と対面させる事までした。2名はその場で宣誓供述し
て書面を渡した。その時の事を、シフリン・レポートはこう伝えている。

 「三人の幹部等は、大韓航空ボーイング747機のKAL007便
 は大破せず緊急着水して乗員乗客等は無事生存している、とする我
 々の主張を完全に納得した」
 「我々は調査結果をヘルムズ議員に渡す以上、KAL007便から
 269名(内合衆国市民63名)を誘拐する結果になったこの事件
 を、上院公開聴聞会の議題としてヘルムズ議員が取り上げ、行政レ
 ベルで徹底調査するよう3人に依頼した」
 「そういう調査をワシントン政府は早めに進めておくべきだった。
 しかし、本件に関しては、調査と名の付くものが唯の一度も行われ
 なかった。飛行機事故発生直後に通常実行されるお決まりの調査で
 さえも……」

●そして、事件は握り潰された
 ヘルムズ議員の3人の代理人が、007便乗客達の生存証拠類を持ってエルサレムを発っ
て以来、シフリン達は、何時アメリカ議会がこの問題を取り上げるかと首を長くして待った。
しかし、ワシントンでは一向にそうした動きは無く、ヘルムズ議員がこの件に関してなんら
かの動きをした形跡も伝えられなかった。
 更に奇妙な事があった。ヘルムズ議員の代理人達によるエルサレム訪問から暫くして、今
度は、ワシントン・ポスト紙の編集者エリザベス・ラリー・ウェイマウス女史が、情報確認
と取材を兼ねて、エルサレムのシフリンを訪ねて来た。ヘルムズ議員の紹介でシフリンに会
ったウェイマウス女史は、記事発表を約束して、こちらもシフリンの手元から証拠資料をご
っそりとアメリカへ持ち帰った。
 こちらの方も、ウェイマウス女史自身からは、なしのつぶてである。何時まで待ってもワ
シントン・ポスト紙には唯の一行も記事が載らなかった。

●妨害された記者会見
 沈黙を続けるだけのワシントン政府と有力マスコミ機関の態度に立腹したシフリンが、事
の発表を決意して記者会見を開いたのは1991年7月11日である。だが、誰も記者会見
の会場には現れなかった。エルサレム市内の会見場で待つシフリンに届いたのは、誰かが直
前に「記者会見は中止」とマスコミ各機関に触れ回ったと云う情報のみだった。

 「我々の考えでは、このセンセーショナルなニュースが発表されれ
 ば、誘拐された人々(大韓航空007便の乗員乗客全員)の運命に
 世界の注目が集まり、心ある人々が立ち上がって、夫々の政府に犠
 牲者解放の為の行動を起こす筈であった」
 「記者会見は、正体不明の連中の所為で開催出来なかった。連中は
 会見予定時刻の1時間前に我々が招待した新聞社、通信社、テレビ・
 ラジオ局等報道機関の全てに電話を掛けて、記者会見の中止を知ら
 せた。その結果、出席した所は一社も無かったのだ」

 こうした奇妙な妨害工作にあっても、シフリン達は手を拱く事無く報道取材記者等に直接
アプローチした。記者達はシフリンをインタビューし、喜んで発表すると約束して資料を持
ち帰った。が、007便生存者の記事を発表したのは、一社も無かった。

(4)シフリン・レポートが齎した衝撃
●突如、007便事件を取り上げたソ連紙
 頼りにしていたアメリカ議会やマスコミから、シフリン達の「007便乗員乗客の生存情
報」は、こうして無視され、握り潰された。
 しかし、同時に事件を巡る環境は大変化していた。恐らく、シフリン達の一連の行動に慌
てた連中がいたのである。その動きは、先ずソ連の新聞『イズベスチヤ紙』に掲載された。

 「我々は269名の乗員乗客に死を宣告したまま、その家族に釈明すらしていない」同紙
はこう詫びながら、「ソ連は大韓航空機を撃墜してもいい権利を有していたが、今や”追加
情報”を世界に公表すべきだ」と。
 記事掲載の理由は、「第二次大戦時のカチンの森事件が、実はナチスでは無くてスターリ
ンの仕業だったとする真実をソ連が容認した其れに習って、007便事件の真実をソ連は公
表すべきと考えた」
 同紙が触れているカチンの森事件とは、第二次大戦中、ポーランド軍将兵一万数千名が通
称カチンの森で、全員処刑(大量虐殺)された事件の事だ。当初、その虐殺者はナチス・ド
イツ軍だと世界中に喧伝され、ナチス・ドイツの残虐非道さを非難する材料の一つにされた。
しかし、後にソ連軍が虐殺した事が判明し、ソ連もしぶしぶ事実関係を認めるに至ったので
ある。このカチンの森事件の教訓を生かし、007便事件も同様にソ連は秘密を公開すべき
だとイズベスチヤ紙は大見得を切ったのだ。
 ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)の波が、007便事件の極秘ファイルにまで及
んだのだろうか。その記事には次のような一節もあった。「ボーイング機は丸事無傷のまま
海底に横たわっており、ソ連の潜水夫が機体の下から上まで隈なく登り降りした」
 これを読んだシフリンは言う。「イスベスチヤ紙は海底の機体が丸事残っていた等と言う
が、その前の記事でも、その後の記事でも機体は大破してすっかり破壊されていたと主張し
たのに」と。
 シフリンに皮肉られる様に、些かふらつき気味ではあったが、何故か翌1991年になる
と、イズベスチヤ紙は、独自調査だと断わりつつ、25回の連載を始めた。こちらの方は、
シフリンが「記事は量り知れない程貴重だ。大胆な嘘と偽情報もあるが、其れまで秘密にさ
れていた数多くの事実を同紙は提供した。記事にはソ連の公式見解とは完全に異なる目撃証
言もあった」と評価する程だった。因みに、この連載を下に、同紙のアンドレイ・イーレッ
シュ記者が纏めたのが『大韓航空機撃墜、9年目の真実』(川合渙一訳・文藝春秋・199
1年)である。
 これらの記事では生存者については全く触れられていなかった。サハリン沖に沈んだ機体
探索の模様は関係者の証言を下に詳細に触れられているが、KGBボードによる生存者救出
については、一言も言及されていない。あくまでも、全員死亡の建前で通されている。しか
し、事情を知らない者から見れば、ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)の波がここま
で及んだか、と思わせるに十分な内容だった。
 何故か、この時期に、クレムリンの極秘ファイルから引っ張り出されたのが、他ならぬ大
韓航空機事件だった。これが、事件環境の変化の一つである。

●CIA秘密報告書の驚くべき内容
 事件から日が遠のくにつれ、どうやら逆に、事件は蒸し返されてきた。
 次に動いたのはCIAだった。
 1992年10月26日、韓国の国会で、国民党(当時)の孫世一国会議員が爆弾発言を
した。孫議員は、その手に”CIAの秘密報告書”なる資料を掲げ、「大韓航空007便の
乗客乗員がソ連の強制収容所で生きている」と訴えたのである。
 孫議員が手にしていたCIA秘密報告書は、78頁に及ぶもので、この爆弾発言の二ヶ月
前に作成された事になっていた。その内容の一部を掻い摘んで記しておこう。

 「事件発生時点で日本の自衛隊がキャッチしたレーダー記録を
 入手した。同時にソ連側のレーダー記録も入手していた。両方
 の記録は一致していた。大韓機はソ連機の攻撃を受けた後、3
 万5000フィートの上空から、12分間を掛けて下降する様
 子を両方のレーダーはゼロポイントまで記録していた」
 「CIAは、レーダー画面から機影が消えたと同時に、ソ連軍
 司令部が着水予想地点に沿岸警備隊の救助船8隻を向わせた事
 を知っていた」
 「CIAは、ソ連最高会議長アンドロポフが、KAL007便
 のアンカレッジ離陸以後の動きに特別な関心を持っていた事を
 知っていた」
 「CIAは、ソ連が洋上のどの地点で捜索活動をしているかを
 知っていた」
 「CIAは、機体が洋上に着水した4時間以内にKGBの沿岸
 警備隊による機体の捜索活動が始った事を知っていた」
 「CIAは、KGBが機体が民間旅客機である事を知った上で
 沈没させた事を知っていた」
 「レーガン大統領とワシントン政府上層部が事件を知ったのは、
 発生後20時間後(筆者注:原文のまま)だった」
 「事件の第一報がワシントンで受け取られたのは、ソ連機の攻
 撃4時間後だった」

 要するに、事件の一部始終をCIA=ワシントン政府は知っていた、という訳である。そ
して、”ソ連からの移民の証言”として、生存者がいる可能性についても触れていた。シフ
リン・レポートの随所を抜粋した”盗作”である。
 このCIA秘密報告書をシフリンも読み、そして仰天した。

 「1983年9月の初期の段階で、007便が墜落せず、モネ
 ロン島付近の洋上に着水した事や、同機に乗っていた殆どの乗
 員乗客が救出され、ソビエト本土の収容所に連行された事実を
 CIAも掴んでおり、その事実を秘密報告書の中で認めている。
 これは驚くべき事だ。つまり、ソ連が懸命になって乗員乗客の
 無事を”隠す”作業に、ワシントン政府は加担しているのだ」と。

●日本のマスコミは、生存者情報をどう扱ったか
 孫議員の爆弾発言のニュースは、日本にも伝えられている。唯、スクープ扱いはされなか
った。唐突過ぎるし、9年も前の古い事件だからなのだろうか。
 読売新聞は、「KAL機撃墜生存者がいた!?」の見出しで、ソウル26日発、河田卓司
記者による次の様な内容を報じた。

 「83年9月に起きた大韓航空(KAL)機撃墜事件を巡り、
 韓国の国会本会議で26日、野党議員が『米中央情報局(CI
 A)の極秘文書によると、KAL機は海上に不時着し、生存者
 もいた可能性がある』と”爆弾質問”する一幕があった。
  同事件では乗員・乗客269名全員が死亡したとされ、エリ
 ツィン・ロシア大統領も今月中旬、韓国等に関連資料を伝達し
 た際、生存者はいなかったと説明したばかり(筆者注:これに
 ついては後述)とあって、韓国政府関係者は9年ぶりの生存者
 説に首をひねっている。
  質問したのは、野党民主党の孫世一議員。同議員は米CIA
 が2ヶ月前に作成したとする極秘文書を入手したとし、文書に
 は(1)同機は被弾後12分間、螺旋形を描いて下降した等の
 状況証拠から、海上不時着に成功した可能性がある(2)ソ連
 からの移民達の証言によると、複数の生存者がおり、強制労働
 収容所に収容された可能性があるーーと記されていると述べた。
  孫議員は同日、マスコミにも同文書の韓国語訳文を配布し、
 信頼性が高い情報だと主張しているが、韓国政府は『米国から
 そういう話は聞いていないし、生存者がいる可能性もないと判
 断している』(外務省)と全面否定している」(読売新聞19
 92年10月27日)

 同じく朝日新聞も、読売と同様に、記事は”控えめ”だった。27日の紙面で、「大韓機
事件でCIA報告書」と謳いつつ、ゴチック文字で「生存者の可能性指摘」としていながら、
ソウル発の小田川興記者の一報を次のように紹介した。

 「1983年9月にサハリン上空で起きた大韓航空機事件で、
 米中央情報局(CIA)が最近、極秘報告書を作成し、同機が
 サハリン沖に不時着し、生存者がいる場合、送還を求める『外
 交的な努力が必要だ』としており、日韓米の遺族等から抗議の
 声が上がる事も予想される。韓国民主党の孫世一・統一国際委
 員長が同日、韓国国会の対政府質問でこの報告書の内容を明か
 し、日韓米、ロシアの4ヶ国で共同調査団を作り、再調査する
 よう要求した。
  CIA報告書によると、大韓機007便は83年9月1日未
 明、旧ソ連戦闘機のミサイルに被弾した後12分間、機長がコ
 ントロールして螺旋形を描いて下降した。航空機が不時着する
 場合と同じ航跡を描いた事などから、海上に不時着したと見る
 のが妥当だ、としている。
  更に旧ソ連から欧米に移民した住人等が『生存者達が強制収
 容所に収容された』と証言している事も明らかにした」(朝日
 新聞1992年10月27日)

 朝日新聞はこの記事に続けて、モスクワ発ロイター電として、「ロシア対外情報局のスポ
ークスマンが、(007便の生存者がいる可能性を)裏付ける情報はない、と言明した」と
いう記事を載せている。
 読売にしても朝日にしても、記事の内容は如何にも及び腰である。とはいえ、その理由は
解らないではない。「マユツバ情報だけれども、韓国の国会議員の発言だから取り敢えずお
知らせしておきます」と言ったトーンにせざるを得ないのは、孫議員がどうやってCIA
”極秘”報告書を入手したのか、そこがはっきりしないからだろう。
 つまり、ニュースソースが情報機関にある事から、”裏切り”(確認)がしづらい。更に
は、日本人遺族に対する文責の重さも加わるから、深追いが出来なかったという事だろう。

●シフリン・レポートは、CIAからKGBへ流れた!?
 ソ連のイズベスチャ紙の記事も、CIA秘密報告書も、シフリン・レポートを下敷きにし
ていた。その事をシフリンは確信している。つまり、こういう事になる。
 シフリンがヘルムズ上院議員やワシントン・ポストのウェイマウス女史に差し出した生存
者資料は、当然、ワシントン政府筋にも伝わっているだろう。そのシフリン・レポートは、
CIAからKGBへと密かに流されたのである。其れを受けてのイズベスチヤ紙の突然の
”事件の真相”発表であり、CIA秘密報告書の作成、そして孫議員への”リーク”(意図
された漏洩)なのだ。これらは、シフリン・レポートを全く無視しようとした米ソ両国が歩
調を合せて行なった、事件の隠蔽作戦に他ならない。
 しかし、ここまで読んで来た読者は、別な疑問を抱くかもしれない。つまり、シフリンは
狂信的な反ソ主義者で、007便生存者の情報も、その妄想の産物ではないか、というもの
である。資料を渡されたヘルムズ議員やワシントン・ポスト紙が何ら反応しなかったのも、
資料そのものがガラクタに過ぎなかったからではないか。記者会見が妨害されたというのも、
彼の被害妄想に過ぎず、シフリンを取材した記者達も、道理が通用しそうにもない怨念まみ
れの彼に辟易しながらも、愛想笑いでその場を取り繕ったのではないか。まして、イズベス
チヤ紙記事やCIA秘密レポートが、自分達の調査内容を下敷きにしていると云う主張は、
誇大妄想もいい所だ……といった疑問である。
 実際のところ、生存者救出を必死に訴えるシフリン・レポート等歯牙にもかけず、

 「我々はシフリンよりも、エリツィンを信じる」

 と言い放ったワシントン政府高官もいる。後でも触れるが、エリツィン大統領も1992
年に韓国とアメリカの政府代表に会い、「生存者はいなかった」と哀悼の意を表している。
嘘に嘘を重ねているとして、ソ連・ロシアに対してシフリンは憤りを隠さないが、しかし、
シフリンの言うそのロシアの”嘘”をアメリカを支持している限りはどうにもなるまい。
 それに、シフリンがこうしたエピソードを公開すればするほど、シフリンの生存者情報に
疑問を持つ人達(恐らく、その最大の理由は、シフリン・グループが世間的な権威性も何も
ない、世を拗ねた者達による一民間機関に過ぎない、と判断する人達)は、更に否定的な見
方を強めるだけだろう。無論、そうやってシフリン達の007便生存者情報を、ありもしな
いデッチアゲだと考える方が気楽に生きて行ける事は確かだ。少なくとも、マスコミが伝え
る”権威”を信じて枕を高くして眠る事が出来る。
 そのようにマスコミが厳正中立であると信じるのは個人の自由だが、これは余りにナイー
ブな見方である。マスコミは、そのお眼鏡に適った情報は伝えるが、それは世界のある一面
に過ぎず、寧ろマスコミが伝えない事実の方が遥かに多いと考えるのも又自由である、とも
言えるからだ。
 ここでもう一度振り返っておこう。シフリンがヘルムズ議員に示した情報の中に、ソ連か
ら招いた収容所看守2名の証言があった。宣誓供述をした上での証言である。基督教国での
宣誓供述の重みは、日本人が想像する以上のものがある。単に「私は嘘を付きません」と口
先だけで誓うのとは訳が違うのである。
 その二名の看守は、共にヘルムズ議員の代理人の前で証言して数年以内に、イスラエルか
ら国外へと消息を絶った。

(5)10年目に提出されたソ連の秘密資料
●浮かび上がって来た”米ソ対決”の真実
 「人の噂も75日」というが、大韓航空007便撃墜事件も発生から7年余の歳
月を経て、忘却と風化の中で消え掛っていた。其処へ突然、飛び出して来たのが同
便の生存情報だった。この衝撃をワシントン政府がどの様に受け止めたかは、想像
に難くない。生存者情報が事実なら、それまでの全員死亡宣言は色あせ、撃墜は嘘
だった事になるからだ。
 ミサイル発射ボタンを押したのはソ連側だったにせよ、当初、正当防衛を訴えて
いたソ連に、乗員乗客全員の死亡を逸早く告げてソ連を非難したのは誰だったのか。
そして、その後に続く米ソの激しい非難の応酬は、一体何だったのか、と云う事に
なる。
 アメリカは、事件当時のレーガン大統領からブッシュ大統領へ、ソ連はアンドロ
ポフ書記長からゴルバチョフ書記長(1990年3月以降は、書記長から大統領へ)、
そして1991年12月にソビエト連邦が消滅した後はエリツィン・ロシア連邦大
統領へと、夫々政権担当者は代わっていたが、両政府とも、蒸し返された事件への
対応からは逃れられなくなった。
 そこで、国家の威信を掛けて取られた対応策が、”沈黙”と”無視”だった。し
かも、アメリカ政府は、ソ連政府と密かに連携しつつ、時ならぬ翌フ襲来をやり過
ごそうとした。「戯言には一切関知せず」と言う訳だ。
 だが、そのやり方は失敗だった。生存者が存在する証拠類を握り締め、生存者の
解放を求めるシフリン等の怒りを買い、彼等の真実を追うエネルギーの矛先をいっ
そう強く突付けられる破目に陥ったからだ。
 窮地から何とか抜け出そうともがく余り、両政府はもう一つの思わぬ失敗を招く。
沈黙と無視、それに資料開示と云う”弁解”が、かえって逆に両政府間の秘めた関
係と、事件の背後に潜む”真犯人”達を明かしてしまうのである。

●米ソ共同の”沈黙作戦”とは
 第二次大戦後の世界は、自由主義陣営と共産主義陣営に二分され、所謂冷戦構造
を執って来た。その中で米ソの関係は、”緊張”と”緩和”を繰り返していたが、
大韓航空機事件は対ソ対決姿勢を強めるレーガン政権の下で起こった。即ち、問題
の大韓機は、米ソ両大国が直接睨み会う北太平洋に迷い込んだが為に撃墜されたの
であって、冷戦構造そのものがこの事件の”下手人”と云うストーリーが、人々の
頭の中で出来上がっていた訳である。
 しかし、このストーリーは”真相”とは程遠かった。
 例えば、ソ連は、アメリカ政府が自分自身も加担したこの犯罪に沈黙してくれる
事を百も承知だった事を証明してくれる恰好の材料がある。1983年12月、ソ
連国防相ウスチノフとKGB議長チェブリコフがアンドロポフ書記長に提出した報
告書がそれである。
 この報告書は長らくクレムリンの奥深くに秘匿されていたが、1992年10月
14日、エリツィンのロシア政府から、韓国の蘆泰愚政府に引き渡された事件関係
資料に含まれていたものだ。それが韓国の総合誌『月刊朝鮮』に紹介されたのが1
996年新年号。ここにあげたのは、その『月刊朝鮮』から訳されたもので、長く
なるが、その全文を紹介しよう。尚、この資料引き渡しの時に、先の孫韓国国会議
員の爆弾発言を報道した読売新聞の記事の中で言及されていたように、「エリツィ
ン・ロシア大統領も……生存者はいなかったと説明した」と言う訳である。

●明かされたアンドロポフ書記長への秘密報告書
<アンドロポフ(書記長)同志へ
 報告の通り、9月1日、サハリン島地域で撃墜された韓国の旅客機(飛行ナンバ
ー007便)のブラック・ボックス(飛行経路の記録と旅客機乗務員の対話録音)
は、10月20日から30日に掛けて、日本海の180メートルの海底で発見され
た。その後、これは引き揚げられて暗号解読と翻訳の為にモスクワに移送された。
専門家の分析の結果、発見された物体が上記に言及した南韓の飛行機と云う事が確
認された。
 ソ連国防部とKGBは、民間航空省と航空産業省の専門家を招聘して、録音の内
容を暗号解読し、その解読内容を具体的に分析、研究した。
 飛行中に飛行機を統制する「慣性航法装置」と「羅針方位航法装置」(Navi
gation Magnetic System)は、良好な状態だった事が確認
された。だが、飛行機の実際の飛行経路は、国際指定航路から660キロメートル
も離脱してカムチャッカとサハリンを通過したのであり、これはブラック・ボック
スから引き出した資料によって確認された。
 飛行経路がソ連防空部隊によって統制される地域では、同防空部隊によって確認
された旅客機の航路がブラック・ボックスに記録された実際の航路と一致した。
 国際指定航路から大きく離脱したと云う事を立証する全ての資料を持っているに
も関らず、同旅客機の乗務員は5時間以上そのまま飛行して、その航路を修正して
ソ連領空から離れようとするいかなる措置も取らなかった。
 明らかにされた様に、同機は「自動操縦装置(Autopilot)の羅針盤方
位」に助けられて飛行した。更に「慣性航法装置」を自動操縦装置に連絡させる事
もなく、同システムは国際指定航路から刻一刻と飛行場所を報告する為にだけ使用
された。
 同システムの資料を利用して、乗務員は定期的に、地上管制機関へ国際指定航路
にあるかのように自身の位置を偽って報告した。
 そうする事で、ソ連の何処かの飛行場が強制着陸されるようにアリバイを事前に
準備した。
 上記に指摘された点と乗務員の高い専門性、同機の飛行性能上の高い信頼性を考
慮すると、南韓の旅客機がソ連領空に故意に進入した事は疑う余地がない。
 飛行機の録音機の資料と飛行機が撃墜されてからの米国行政府の行動を分析した
所によると、我々は米情報機関が2重の目的を追求した大規模な政治挑発行為を具
体的に計画した事を確認する事が出来る。
 第一に、同旅客機の領空侵害で、ベレート・スパイ衛星等から、極東での我々の
防空システムについての資料を得ようとした。もし、同機が何の指示もなく、我が
国の上空を通過出来た場合、米国人は極東での我々の防空システムのお粗末さにつ
いて宣伝をする意図を持っていた。
 第二に、彼等は我々が飛行を阻止する場合、ソ連に対する大規模な反ソキャンペ
ーンを展開する目的で、その事実を利用する考えであった。同機の挑発的で諜報的
な性格と、そして米情報部が追求しようとした所を我々が暴露して、その挑発行為
を通じて米国人が目的とする所を完全に阻止した。
 米国がこの行為を具体的に準備したので、米国は彼等の行為を隠蔽する目的で、
幾つかの事前措置を講じた。録音資料を分析した結果、同機が我が国領空を故意に
侵犯した事を確認する証拠を発見したが、同機がスパイ行為を働いた事を直接説明
する資料は得られなかった。
 従って、飛行経路及び対話に関する客観的な資料を西側国家に伝達する場合、南
韓の飛行機の目的について、ソ連と同じく西側諸国も又、自分達の立場を裏付ける
為に同資料を利用する事が出来る。そして、反ソ宣伝の新たなキャンペーンと同じ
く排除する事が出来ない。
 ICAO(国際民間航空機関)や録音を解読する意図がある国に録音資料を伝達
しないのが良いだろう。そして、同録音がソ連にある事も、矢張り秘密にしなけれ
ばならない。又米国・日本は、先に指摘された物体が我が国にある事を裏付ける証
拠を持っている筈が無い。
 今後その秘密を保全する為に必要な措置を我々は探った。同事件と関連した問題
が派生する場合、9月6日付けのソ連政府声明で発表された立場を引き続き維持し、
損害補償を一切拒否しなければならず、又挑発行為を計画した米政府に、犠牲者に
対する責任を全て転嫁させなければならない。同意を望む。

D・ウスチノフ(国防相)
M・チェブリコフ(KGB議長)
1983年12月>
(『世界戦略情報”みち”』歴史修正学会 通巻第25号8~9頁 KAL007
便、ブラックボックス解説・安田正鷹編訳より)

●何故、秘密文書が明かされたのか
 補足しておけば、このアンドロポフ宛の文中にある「9月6日のソ連政府声明」
とは、次のような内容であった。

 「要するにこの事件は、ソ連の戦略的重要地域での故意かつ
 前もって計画された行動だった。この行動を唆した者達は、
 結果がどうなるかを当然、認識していた筈だ。
  彼等は明らかに、民間機を使った大情報作戦を実施に移し、
 故意にその乗客達を死の危険に晒したのである。この航空機
 をソ連空域に向わせる為のデータがどうして機内のコンピュ
 ーターに入力されたのか、誰にも解らないだろう、というレ
 ーガン声明程皮相な言葉を誰が想像出来るだろうか。
  今回の領空侵犯は技術的な過ちではなかった。この航空機
 の乗客達は、この厚かましい犯罪の犠牲者となったのである。
 ソ連政府は罪の無い人々の死に弔意を表明し、その遺族、友
 人と悲しみを分かち合うものである。今回の悲劇の全責任は
 完全に米国指導者達である」(「朝日新聞」1983年9月
 7日夕刊が伝えたソ連国営タス通信発表の大韓航空機撃墜事
 件に関するソ連政府声明の要旨から抜粋)

 この声明から3ヶ月後に、その声明文通りにソ連の立場をこれからも引き続き維
持し、損害賠償等一切払うな、とウスチノフ国防相とチェブリコフKGB議長はア
ンドロポフ書記長に上申している訳だ。
 つまり、事件当時のソ連上層部は、007便の乗員乗客達がKGBレポートによ
って”救出”された事実を、当然知っていた。にも関らず、アメリカ政府に追随し
て、007便の撃墜、即ち乗員乗客の全員死亡を”公認”したのが9月6日の声明
だったのである。
 政府声明で、一度乗員乗客の死亡を認めてしまっている以上、ソ連としてはもう
引っ込みがつかない。こうなったからには、今後もアメリカと共同歩調を取る決断
をせよ、と軍とKGBがアンドロポフに迫ったのがこの秘密文書だ、というのが私
の見解である。
 つまり、米ソ両政府は、ミサイル発射=機体破壊=撃墜と短絡した、というより、
そのように情報が操作されて信じ込んだ世間の連想を逆手に取る事で、事件の真相
をしめしあわせて隠蔽したのである。だからこそ、両政府は「全員死亡」を訴え続
けるほかなくなったのだ。その陰謀振りは、ソ連政府が”公式”と称する資料から
も説明出来る訳で、これぞ、当に皮相な口裏あわせである。この公式発表資料は、
撃墜=全員死亡を信じ込ませようとする余りに、かえってその逆の”共犯事実”を
説明してしまっているのだ。
 だからこそ、今更、生存者がのこのこと現れて来たら困る、とばかりに、米ソ両
国の事件対応、つまり利害を一致させていたのである。
 この機密文書は、先にも触れたように、事件から9年後の1992年10月14
日に、ロシア政府から韓国政府に引き渡された事件関係資料に含まれていた。
 その前年の91年12月25日、ソビエト連邦は消滅、ゴルバチョフ大統領は退
陣し、エリツィン大統領のロシア連邦が後を引き継いでいた。しかし、共産党独裁
体制が崩壊し、新生ロシア政府に変わっても、この国の体質までがおいそれ変わる
訳も無い。何事も秘密のベールに包むのが好きな体質も、勿論ロシア政府にちゃん
と受け継がれている(プーチン大統領よ、被害者全員を釈放して、ロシア政府の威
信を取り戻せ。旧ソ連との歴史を一切切り離せ!愛)。
 そのソビエト=ロシア政府が秘密文書をしぶしぶ明らかにしたのは、”シフリン
効果”にほかならない。シフリンが掴む生存者情報を、取り敢えず米ソ両政府は握
り潰したものの、何時までもその情報を世界の目から隠し覆せるとは限らない。事
件が思わぬ方向に蒸し返される中で、何らかの対応策を取る必要に迫られたソビエ
ト=ロシア政府が目を付けたのが、この秘密文書の”公開”だったと云う訳である。
 勿論、外に出した以上、この文書が何らかの形で公開される事は計算の上である。
つまり、将来、真相が明かされた場合に備えた”保険”、即ち「自分達は正直に振
る舞った」と云う”アリバイ作り”用資料なのである。実際、韓国の総合雑誌『月
刊朝鮮』が、1996年新年号の別冊付属[現代史紙上博物館]で掲載した「現代
史丸秘資料」125点の中で、この文書の全文を紹介したから、ズバリ、アリバイ
効果はあった事になる。

●事件資料を西側に渡したエリツィンの狙いは、どこにあったのか
 このソビエト=ロシア政府の”アリバイ作り”は、もう一つある。先に触れたよ
うに、1992年10月14日、ロシア政府は大韓航空機事件の資料を韓国政府に
引き渡してているが、エリツィン大統領自らが手渡したその席に、アメリカ政府代
表も同席、又同機から回収したブラックボックスはICAO(世界民間航空機間)
に引き渡されている。
 このエリツィン大統領の”英断”について、『ボイスレコーダー撃墜の証言』の
著者・小山巌氏は、こう述べている。

 「旧ソビエト連邦の崩壊は、絶対に出てこないと思われてい
 た大韓航空機撃墜事件の資料を歴史の闇から明るみに引き出
 した事になる。エリツィン大統領は政権を握ると共に、国内
 外の情報を手中に収め、恐怖政治の元凶となっていた秘密警
 察組織=旧KGBの解体に着手、断行した。過去の負の遺産
 清算するのが狙いとされたが、実態は権力闘争だった。
  負の遺産の中でも特にアメリカから強く迫られていたのが、
 大韓航空機撃墜事件の調査だった。エリツィン大統領は、…
 …当時、この事件がどう扱われたかを最重要課題としてサハ
 リン現地の再調査を命じた。其れと共に第一次資料であるブ
 ラック・ボックスの中身を引き渡し、全ての解析調査をIC
 AOに委ねる決断をした。政治的に中立なICAOに事件の
 原因究明を任せる事によって、世界に新生ロシアの透明性を
 強く印象付けるのが狙いだった」(同書113~114頁)

 当時、エリツィン・ロシア政府の動きに注目していた世界のマスコミは、みなこう
した見方をしていた。つまり、非常に好意的に受け止めていたのである。しかし、ロ
シア政府は強かで、資料公開には次のような別の狙いも隠されていたのである。
 この92年10月14日に、ブラックボックスと共にICAOに引き渡された資料
の中に、攻撃機パイロットと基地司令官の会話記録があった。この資料の作成日は、
事件発生当時の1983年11月28日。
 前記小山巌氏の『ボイスレコーダー撃墜の証言』では、大韓機をミサイル攻撃した
ソ連戦闘機805号のパイロット・オシポービッチ中佐が”基地に戻ってから”総司
令官アナトリ・コルヌコフ大佐との間で交わした会話を、その記録資料を引用して紹
介している。
 実際の記録にある会話の全体量は不明だが、小山氏の著書では、六つの質疑応答の
みが紹介されている。この中で、私が興味を持ったのは、会話の最後のくだりである。
実は、そのくだりが公開されれば、「生存者はいなかった」とエリツィン・ロシア大
統領も主張するソ連政府のアリバイが成立する事になる。
 問題の会話は、こうだった。

<コルヌコフ大佐「自身の眼で見た事、レーダーで確認した事
 を報告せよ。機関砲をどのように操作したか。そして、どの
 ミサイルを発射したのか。熱追尾式か、レーダー誘導式か」
 オシポービッチ「両方を発射しました」
 コルヌコフ大佐「機関砲は発射したか」
 オシポーピッチ「2連射しました。反応はありませんでした。
 目標は前と同じように飛行を継続しました」
 コルヌコフ大佐「外観から機種は特定出来たか」
 オシポービッチ「大型機に見えました。航空灯は点灯してい
 ました」
 コルヌコフ大佐「爆発は確認したか」
 オシポービッチ「爆発し、灯火が消えました。私は報告し、
 右に旋回、離脱しました」
 コルヌコフ大佐「灯火は消えたのだな」
 オシポービッチ「目標は撃墜されなかったのですか?」
 コルヌコフ大佐「目標は消滅した。しかし、目標は何故かゆ
 っくりと下降していった。行動が不能になったかしてモネロ
 ン島の空域で消滅した。今は誰にも解らないのだ」>
 (『ボイスレコーダー撃墜の証言』183~184頁)

●栄転した現場責任者
 攻撃した本人が「目標は撃墜されなかったのですか」と結束を尋ね、結果を知って
いる筈の当事者本人が、「今は誰にも解らないのだ」と答えている。「誰にも解らな
いのだ」と言わせているこの機密文書を、10年後に公表したその目的とは、私に言
わせれば、新生ロシア政府がソ連の過去の”悪行”を反省したのでも何でもない。唯
々、将来、事件の真実が発覚した場合に備えた、ソ連・ロシア政府によるもう一つの
アリバイ作りなのである。
 後に、コルヌコフはロシア空軍総司令官に任命される。1998年1月20日付で
エリツィン大統領から新司令官に任命されたコルヌコフは、「私は撃墜(大韓機)を
命令した。事件の思い出は辛いものだが、今でも(撃墜を命じた)決断は正しかった
と確信している」と”過去”をコメントした。この談話を交えて伝える共同電(モス
クワ発1月23日)によれば、コルヌコフは、総司令官就任までは、防空軍モスクワ
軍管区司令官だったとある。
 コルヌコフは僻地カムチャッカから、中心部モスクワ方面へと”栄転”していたの
である。乗員乗客の収容や機体処理に当たったロマネンコ将軍が”存在しなかった存
在”にされてしまったとは対照的に、である。
 だから、コルヌコフが”つらい気分”になると言っても、彼が殊勝にも犠牲者達に
哀悼の意を表している等と思ったら大間違いで、シフリン流に解釈すれば、撃墜し損
なった部下を持った自分自身への悔しさに過ぎない。”軍人馬鹿”には、犠牲者や遺
族への悲しみ等よりも、軍務に忠実だったかどうかが先決だ。それに栄達と引き換え
に”過去の傷”を握り潰す事に、エリートは躊躇もせず、痛痒も感じない。コルヌコ
フ発言に見る通り、現在に至るまで白を切り通そうとするソ連・ロシア政府のこんな
態度では、シフリンの追跡熱は冷しようもあるまい。
 それは兎も角、ソ連・ロシア政府はアメリカ政府の出方を窺いながら、ICAOで
の公開効果を計算に入れた上で、さりげなく布石を打った。つまり、この会話を交信
記録に挿入させる事によって、謎を残した歴史的事件の”決定的な真実”を作り上げ
たのである。
 勿論、エリツィン大統領は、アメリカからの圧力に屈して事件関係の秘密文書を出
して来た訳ではないし、アメリカ側も、本気になって資料を出せと主張していた訳で
はない。シフリン・レポートが巻き起こした嵐を避けようとした一連の茶番劇を、エ
リツィン・ロシア政府が利用して、「俺は正直者だ」と厚かましく述べ立てようとし
ただけなのである。

(6)積み重なる”不可解さ”
●事件は、はじめから不可解だった
「事件は始めから不可解な展開を見せていた」
 事件発生から12年後に、大韓航空007便撃墜事件を振り返ってこう書くのは、
三好徹氏である。読売新聞記者から作家に転じ、御自身で「可也の数の、所謂国際的
な諜報小説を書いていた」という三好氏だけに、現在に至るも謎とされているこの事
件の”不可解な部分”を極めて的確に纏めている。雑誌『文藝春秋』1995年1月
号に『大韓航空機撃墜事件、今なお残る謎』と云うタイトルで発表されたその文章の
一部を、ここで引用させて頂こう。

 「9月1日の夕刊締切り段階で、各新聞は、ソウル情報を下に、同機がサハリンに
 強制着陸させられたらしい事を伝えていた。このソウル新聞のソースは、韓国外務
 省の説明によると『第三国からの非公式』通報だった。第三国がアメリカである事
 は、この種のケースでは常識であった。ところが、その日の夕刻からテレビは一転
 して撃墜されたらしい事を伝え始め、二日の朝刊では完全にソ連戦闘機による撃墜
 に確定し、269人の全員死亡が確認された。
  私の最初の疑問は、アメリカ(つまりCIAという事だが)はどうして韓国に誤
 った情報を伝えたのだろうか、という事だった。この謎は今持って解けていない」
 「その他、今もって、どうしても不可解なのは、ソ連機がミサイルを発射し、
 『目標は破壊(撃墜)された』
  と報告したあと40秒後に大韓機のパイロットがSOSも発せずに成田を呼び出
 した事である。この事件に関する本が出ると手に入れて読んで来たが、これを合理
 的に説明した本を見た事がない」

 この文章で三好氏は、「防衛庁筋の意識的とも思われるマスコミ操作」にも触れて
いる。例えば、ソ連戦闘機と地上局の交信記録を発表した際、パイロットが地上局に
報告した数字に勝手に「高度」とか「メートル」の文字を付け加え、燃料の残量を伝
える数字にまでそれを行なった上で、記者達に「ソ連機が大韓航空機の上下をグルグ
ル乱舞しながら逃すまい、としているかのように説明」したと云う。「防衛庁がわざ
とミス・リードしたのか、彼等自身も間違ったのか、解らない」と三好氏は言うが、
この事件での日本側の対応に不自然さがあった事は否定出来ない。
 例えば、日本側では、稚内の航空自衛隊のレーダーサイトで捕らえた007便の航
跡と、傍受したソ連戦闘機の通信内容等を分析し、事件から7時間後の9月1日午前
10時過ぎには、防衛庁から後藤田正晴官房長官(当時)に「空対空ミサイルにより
撃墜された」と伝えられ、中曽根康弘首相も説明を受けたと云う。しかし、「余りに
も重大な内容」なのと、「高度の軍事機密である通信傍受能力をソ連側に察知される
のはまずい」との判断が働き、撃墜の公表は抑えられた。そして「米国と”緊密な連
絡”(外務省)が繰り返され」、午後になって、「米国の対応や、ソ連の反応を待と
う、との結論」になった。
 この経緯については9月3日の各紙が報じているが、韓国外務省が「第三国からの
情報によると、サハリンに強制着陸させられている」と発表した時、既に日本の政府
筋は、”撃墜の確証”を掴んでいたにも関らず、其れを隠していたというのである。
高度な政治的判断とやらが絡んでいたとはいえ、乗員乗客の生死を案じて一喜一憂し
ていた家族の方達にとっては、いい面の皮だろう。
 又、防衛庁はその時、自分達が掴んだ情報に相当な自信を持っていたようだ。撃墜
時間について、防衛庁とアメリカの発表が9分間食い違っていたが、当時の空幕長は
「当方のレーダーによるデータは、間違い無いと確信している」と語り、アメリカ国
防総省筋の「撃墜したのはスホーイ15」という情報に対しても、「それは誤りで、
撃墜したのはミグ23だ」と述べている(朝日新聞1983年9月3日朝刊)。三好
氏の指摘する”ミス”等は些細なケアレス・ミスに過ぎないというわけか。

●アメリカは、何故黙っていたのか
 又、事件発生から暫くして、様々な情報が伝えられるようになるにつれて、事件の
複雑さが次第に露わになって来た。この事件で妻子を失った武本昌三は、アメリカに
長期滞在しながら事件を調査して纏めた『疑惑の航跡』(潮出版社、1985年)で、
次の三つの事を実感したという。

 第一に、大韓機のソ連領空侵犯は、(INS[慣性航法装置]への飛行データのイ
ンプット・ミスといった)単なる”人為ミス”とは考えられない事。
 第二に、アメリカ政府は、同機の航路逸脱を最初から知りながら、一片の警告も発
しなかった事。
 第三に、日米両国とも、持てる情報の一部を作為的に隠している事。

 こうした疑問に対して、日本政府は、「米軍レーダーは、民間航空機の軌跡を追う
事を任務とはしていない」という木で鼻をくくったような答弁をした。これでは、言
い訳にすらなっていない。
 こうしたアメリカ側の不可解な対応事実を辿っていくと、アメリカ政府が、この事
件に最初から”関与”して胡散臭さが伺えて来るのである。

●取り消された事件の第一報
 その他、この事件での不可解な事は細かい所まで見ると山ほどある訳だが、199
2年に作成されたと云われるCIAの秘密報告書、即ち韓国の孫世一国会議員が入手
したあの秘密報告書の内容が、はしなくも胡散臭さならざるを得ないその理由を象徴
的に漏らしている。

 「レーガン大統領とワシントン政府上層部が事件を知ったのは、発生20時間後だ
 った。……事件の第一報がワシントンで受け取られたのは、ソ連機の攻撃4時間後
 だった。……その第一報はいきなり取り消しになり、30分後に再発行された時に
 は、元の第一報が著しく改変されていた。……第一報の改変してから11日後まで
 続けられた」

 そんな調子だったから、色々混乱していたのだろう。諜報機関の”奥の院”といわ
れ、アメリカの危機管理を一手にする最高機関NSA(国家安全保障局)もとんだド
ジを踏んでいる。1983年9月3日にNSAは、最終的と題した大韓航空機事件の
報告書を纏め上げた。ソ連のレーダーが何時何分に大韓航空007便の機影を捉えた
か等を知るのはお手のもの、最先端のハイテク技術を駆使するNSAだが、その報告
書に、ソ連機の攻撃を受けた4分後の大韓機の高度は「500メートル」だった、と
書いていたのである。レーダーが示していた高度は5000メートルだから、0が一
つ欠けた単純なタイプ・ミスである。しかし、この誤りに気付かず、一ヶ月半も後に
なって、ようやくその数字を訂正したのである。
 と云う訳で、日本の防衛庁がソ連機の燃料の残量まで、高度を示す数字だと受け取
ったのは、NSAと同様の単純ミスだったのかもしれない。
 付け加えておけば、007便の航跡の追跡やソ連機の無線交信の傍受等で防衛庁は
盛んに自己アピールをはかったが、007便事件で日本が果たした役割は、いかほど
のものだったか。防衛庁が得々として発表した”事実”にしても、乗員乗客の死亡宣
告を下させた者達にとっては、「おー、そうかそうか、よくやったね」と云う程度の
ものであったに違いない。馬鹿げた謎が次々に生まれる所以なのである。
 結局、日本は蚊帳の外に置かれたままだが、その国民になると、先の武本昌三氏の
ように、アメリカの影に怯え、”軍事機密”の厚い壁の前に立ちすくむしかない。同
じ様に蚊帳の外に外されたのは、名目上の当事国である韓国の国民も同様である。自
国の”民間機”が撃墜され、多くの同胞が犠牲者になったというのに、抗議の声を上
げるぐらいで、それも米ソの沈黙の壁に跳ね返されてしまうだけだった。

●ニクソン元大統領は、007便に乗る筈だった
 この事件が仕組まれたものであるが故に残る”不可解さ”の一つに、事前に、事件
が起こる事を知っていた者がいた、と云う事実がある。
 007便の乗客の一人にラリー・P・マクドナルド下院議員がいたが、実はこの0
07便には複数のアメリカ人議員が塔乗を予約していた。が、マクドナルド議員以外
は、塔乗便をずらしていた事が、事件直後に明らかにされている。マクドナルド議員
を襲った過酷な運命ーー搭乗機が撃墜されて命を落とす、と云う事態は免れたものの、
KGBによる厳しい尋問と”治療”で自分が誰なのかも分らなくなり、中央アジアの
強制収容所での監禁生活ーーを彼等が逃れる事が出来たのは、不幸中の幸いだった。
 もう一人のマクドナルド議員になり損ねた幸運な議員の一人に、ニクソン元大統領
がいたと云う。これを伝える1983年9月25日の朝日新聞の記事をご紹介しよう。
モスクワ支局発の記事の内容は次のようなものだった。

 「ソ連領空を侵犯した大韓航空(KAL)機には、ニクソン元大統領も乗る事にな
 っていたが、出発直前に塔乗を取り止めた。これは事前に何らかの情報が告げられ
 ていたからに違いないーースパイ飛行説を主張し続けるソ連は24日、こんな”新
 事実”を持ち出した。
  同日付のソビエツカヤ・ロシア紙は、これまで西独クイック誌だけが伝えたとい
 うこの事実に注目し、これを引用しながら、ニクソンが予約していたのはKAL0
 07便第一列B2席であり、この席は事故の犠牲になったマクドナルド米下議員
 (民主)の席に近かった、と報じている。
  又、ニクソン氏だけが塔乗を取り止めたのは、元大統領までを危険にさらすに忍
 びなかった米特務機関の事前通告があった為に違いない、と見る西独平和活動家等
 の発言を伝え、こうした見方に説得力を持たせようとして、大統領在任中の同氏と
 米中央情報局(CIA)等の”親密な協力関係”を指摘している」

 これに対してニクソン元大統領は、側近ニコラス・ルーウィ氏を通して、「KAL
機は勿論、他の航空会社のソウル行きの便にも乗る予定は全くなかった」と、007
便の予約取り消しを否定し、元大統領は「常時、国内外からの数百に上る招待を受け
ており、ソウルでの米韓相互防衛上約30周年記念会議への招待もその一つだったが、
結局出席を断った」と云う。

●命運を分けた一本の電話
 更に、あのジェシー・ヘルムズ上院議員と、同僚のスティーブン・シムズ上院議員
も幸運の持ち主だった。ヘルムズ議員は、先述のように、シフリンが生存情報救出を
求めてアメリカに接触をはかった相手であり、アメリカ保守派の大物である。シムズ
議員も共和党員で、矢張り保守派有力議員。この二人が007便の予約を取り消した
事を伝える産経新聞(1983年9月8日)は、9月7日に明らかになった事として、
以下のように記している。

 「両議員はソウルでの米韓安保関係会議(9月1~3日)に出席の為、8月31日
 ニューヨーク発の007便を予約していたが、国内の政治活動日程の都合により、
 ”数日前になって”(議会筋)31日ロサンゼルス発のKAL015便に変更した
 と言う。……ヘルムズ議員等が出発直前に塔乗便を変更した事は、犠牲者の遺族の
 気持ち等を考えて公表が差し控えられて来たようだ。……
  撃墜後、ヘルムズ議員は直ちに米国務省に対し、同議員の塔乗予定とソ連軍機に
 よる撃墜との間に何らかの関わり合いがあるのではないかと調査を進めている。米
 議会筋は、ヘルムズ議員は米政権が対ソ融和を図ろうとする時に常に最大の阻止力
 になって来た事を指摘すると共に、同議員の”007塔乗予定”は韓国へ電話連絡
 されていた事からソ連側も知り得た筈だとし、”撃墜とヘルムズ議員塔乗予定との
 関係は、証明する事も出来ないが、同時にその可能性も排除出来ない。今後の真相
 究明に当って配慮されるべき要素だ”とコメントしている」(全く勘違いしている
 が、その理由は、後で書くと思うが、簡単に言うと電話した人が犯人グループで、
 ヘルムズ議員は、イスラエル派だから助けられたと言っておくが!愛)

 ヘルムズ議員等が乗り換えた015便のソウル到着予定時刻は、007便に遅れる
事僅か27分で、給油地のアンカレッジには、両機が相次いで駐機している。このア
ンカレッジのトランジット・ラウンジで両機の乗客は一緒になり、ヘルムズ議員は、
二人の娘を連れたグレフェル夫妻と話をかわし、ステーシーとノエルの幼い姉妹との
忘れ難い運命の一時を過ごしたのである。
 ヘルムズ議員やニクソン元大統領の下に、大韓航空007便の塔乗を見合わせるよ
うにと云う連絡が、直前に入った事はほぼ間違いない筈だ。それは一本の電話だった
とも言う。それが、ソビエツカヤ・ロシア紙がいうようにCIAからだったのか、其
れとも別な筋からだったのか、そこまでの詮索はここではしないでおこう。しかし、
007便に何かが起こる事を、事前に”知って”いた者達がいた事は確かなのである。
 その”忠告の電話”が掛って来なかったマクドナルド議員は、何も知らずに007
便の機上の人となったのである。一体誰が、何故、”差別”したのだろう。

●マクドナルド下院議員が”消された”理由
 何故、ニクソン元大統領やヘルムズ、シムズ上院議員に掛って来た電話が、マクド
ナルド下院議員にはなかったのか。
 民主党選出のマクドナルド議員は、反共主義者としても知られていた。1975年
から事件が起きた83年まで、反共組織ジョン・バーチ協会会長と、ウェスタン・ゴ
ールズ財団理事長職に就いている。
 尚、このジョーン・バーチ協会は、ある時期までではあるが、シフリン達の調査活
動に資金的援助をしてくれた機関の一つである。
 ソ連に対して強硬路線を取るレーガン大統領にとって、マクドナルド議員のような
存在は好都合といえそうだが、実はそうではなかった。マクドナルド議員は、レーガ
ン政権にとって目の上のコブだったのである(レーガン大統領は狙撃事件を受けた事
実を忘れてはいけない。ゲイリー・アレン著 高橋良典訳『ロックフェラー帝国の陰
謀』の高橋良典の解説では、「腹心の友」と書いてある。再度言うけれど、レーガン大
統領は、暗殺未遂になった事を忘れないで欲しい。だから最終的に言い成りになって
しまった。ローマ法王ヨハネ2世も暗殺未遂があった事を忘れないで欲しい!愛)。
 同議員が、レーガン政府から目の仇にされていたと思われるその理由は、事件前年
の82年1月27日に議会で演説したその発言内容にある、と私は思う。彼がアメリ
カ合衆国の”国連脱退”を叫んでいたからである。彼の政治姿勢を示したその発言内
容の一部をご紹介しよう。

 「国際連合は35年に亙り、その殆どを合衆国の納税者の負担によって、途方もな
 い陰謀に欲しいままに耽って来ました。その陰謀とは、我が共和国をソ連及び共産
 系第三世界に支配される世界政府の奴隷となさんとする陰謀です(違う。本当はイ
 スラエルの奴隷になる目的で作られた。共産主義理論はイスラエルの奴隷にする目
 的で作られている!愛)。この様にさんざん陰謀を欲しい侭にされて、責任ある役
 人も心ある市民も、益々大勢が手を引きたいと思っているのであります……」(1
 982年1月27日 議会議事録・発言補遺)

 これまで国連憲章に反対票を投じたアメリカの議員は2名。その一人であるランガ
ー上院議員が、この憲章(条約)が合衆国にとって多大なる危険に満ちていると警告
したのは1945年7月だった。そして後年になって、ランガー議員と同様の態度を
示したのが、このマクドナルド下院議員だった
 国際連合について、日本人の大多数が抱いているイメージは、”国際問題を解決し、
平和維持の為の機関”というものだろう。
 実際、教科書を見ても、

 「第二次世界大戦勃発後の1941年8月、イギリス首相チャーチルとアメリカ合
 衆国大統領ルーズヴェルトの会談の結果、戦後の国際秩序と安全保障の原則を謳っ
 た大西洋憲章が発表され、……国際連合憲章は、45年4月、50ヶ国が参加した
 サンフランシスコ会議で正式に採択され、同年10月国際連盟に代わって、国際連
 合が発足した。
  国際連合は、国際平和を維持し、経済・文化・教育の発展を助け、基本的人権を
 擁護し。紛争の原因を取り除く事を目的にした常設の国際機関であり、……国際連
 盟の非力を反省して、米・英・仏・ソ・中の5大国を常任理事国とする安全保障理
 事会を設置し、国際紛争解決の為に経済制裁・軍事行動を含む強力な権限を与えた。
 ……国際連合はその目的を実行する為に、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)、
 国際労働機関(ILO)、世界保険機関(WHO)等、幅広く活動する専門機関を
 持っている」(『詳説世界史』山川出版社・1995年)

と、殊更に”平和”や ”人権”を謳う説明がなされている(これは、第二次世界大
戦の戦勝国が平和の国である事を前提している。それが正しいかどうかは、その後、
直ぐにソ連共産主義問題で大量虐殺問題が噴出したのです。その前のロシア革命の残
虐性や植民地問題を忘れている。そして、ナチスの虐殺問題も真実であったかどうか
疑問を持たれている。本当に戦勝国が正義があったかどうか。基本的に負けた国は反
共の国であったのです!愛)。
 こうした教科書的知識しか持ちあわせていないと、マクドナルド議員が何故、国連
反対を主張したのか、又、何故、それがレーガン政権にとって目障りなのかが、おそ
らく理解し難いだろう。先に引用したマクドナルド議員の演説にしても、チンプンカ
ンプンに違いない。
 だから、強引なこじつけのような印象を読者に与える事は承知の上で述べておくと、
この82年1月の議会での演説が、マクドナルド議員の命取りになtったのである。
ヘルムズ議員ならおくびにも出すまいその演説で、マクドナルド議員は、国連条約の
反国家的犯罪性と煽動性を余すところなく暴露した。その為に彼の所には、8月31
日ニューヨーク発大韓航空007便に乗らない方がいいと云う”忠告”が届かなかっ
たのだ。だから、その経緯を表面的になぞれば、マクドナルド議員は、反国連加盟を
叫ぶのを”忘れた”圧倒的な数の議員と議会を支配する不思議な”影の手”によって
”虜囚”にさせられたのに等しい。
 どうして、そう結論付ける事が出来るのか。その説明は非常に長くなるので、3章
以降で詳しく触れていきたい。その過程で”差別化”の意味と、この事件の”真犯人”
達の像も自ずと明らかになってくる筈だ。

●”生存者”情報に耳を貸せなかったヘルムズ議員の”事情”
 こうした私の解釈からすれば、シフリンから007便生存者の情報を受け取ったヘ
ルムズ議員が、この件に関して沈黙した理由が読者にも類推し易くなるだろう。
 仮に、ヘルムズ議員が生存者情報を確実なものだと判断し、外交問題として議会に
働き掛ける事を本気でシフリンに約束しても、生存者情報の内容が正確であればある
程、その情報を公にする事が出来ないと言う、いわばパラドックスに陥るしかないか
らだ、というのが私の解釈である。
 007便でマクドナルド議員と運命を分けたヘルムズ議員を、元ニューヨ-ク・タ
イムズ記者セイモア・ハーシュは、一章でも触れたその著書『目標は撃墜された』の
中で、次のように書いている。

 「ジェシー・ヘルムズ上院議員と云えば保守派の代表だが、今度ばかりはアメリカ
 議会の大半の(筆者注:国連脱退等叫ばない)議員の心中を代表していた。ソウル
 から帰国後に上院で、アンカレッジのトランジット・ラウンジにおけるグレンフェ
 ル家の娘達(筆者注:ステーシーとノエル)との出会いについて万感の思いで語っ
 たのである。『例え1千年生きようとも、私は決してあの少女達の事を忘れない。
 私はこのひざで遊び、笑い、頬に口付けをしたあの娘達。手を握り、投げキッスを
 しながら007便に乗り込んでいった少女達。愛らしい二人の少女、忘れようとし
 ても忘れられるものではない。何故、あの少女達が犠牲にならなければならないの
 だ』」(ハーシュ著『目標は撃墜された』50頁)

 日本の雑誌『財界』では、1983年5月号で、「レーガン再出馬のカギを握る最
年少補佐官」と題してヘルムズ議員を紹介している。筆者の阿部康典氏がニューヨー
ク・タイムズから引用した”データ”によれば、尊敬する人物として、ヘルムズ議員
は、チャーチル(英元首相)、マッカーサー(元日本占領連合国軍最高司令官)、ビ
リー・グラハム牧師を上げている。又、好きな映画は『サウンド・オブ・ミュージッ
ク』『風と共に去りぬ』、好きなテレビ番組は『大草原の小さな家』、好きなスポー
ツはフットボール、好きな言葉は「神は貴方が勝つ事を望んでいるのではない。貴方
がやってみる事を望んでいる」、好きな本は『聖書』と答えている。要するに、俳優
のジョン・ウェインに象徴されるような、道徳的で頑固者、そして力持ちだが、心優
しい、気のいい保守的アメリカ人である(『聖書』のイスラエルの歴史を見れば『サ
ウンド・オブ・ミュージック』『風と共に去りぬ』、好きなテレビ番組は『大草原の
小さな家』からほぼ遠い世界である!愛)。
 このヘルムズ議員は、後に麻薬密輸組織カリ・カルテルのノリエガ打倒を訴え、ハ
ーシュがそれを取材する事になるが、『目標は撃墜された』では、ハーシュはヘルム
ズ議員の事を「愛想が良くて紳士的」と形容している。要するに、天下の大物議員を
気のいいおじさんでしかないと嘲笑しているのである。このハーシュが中々の曲者で
ある事と、何故ヘルムズを見下すのかは、後の章で明らかになる筈だ。
 実際、ヘルムズ議員はシフリンの期待に応える事は出来なかった。その理由が、0
07便搭乗機取り止めを忠告してくれた”命の恩人”、言い換えれば自分の命さえ左
右出来る相手を敢えて裏切れない事にあったのか、或いは、もっと他にあったのか。
それは解らないが、ヘルムズ議員が恐らく命懸けの逡巡をしている間に、シフリン達
が調べ上げた生存者情報(シフリン・レポート)がCIAに”盗作活用”され、ソ連
にまで流出しただろう(本当に基督教保守主義者であるならば、イエス様を憎んでい
るシオニズムユダヤ教徒と仲良くなれる訳ではない。このシフリン・レポートを無視
した事は、未だプーチン大統領は、マクドナルド議員を解放していないから、今も強
制労働収容所の中で悲惨な生活を余儀なくされている状況である彼を見殺しに考えて
いる人である。アメリカ国民よ、アメリカを心から大切にし、人類愛に燃えたマクド
ナルド議員を裏切り、世界を売ったヘルムズ議員を討て。勿論、公的活動で。只、ヘ
ルムズ議員は”真犯人”の下っ端に過ぎない。プーチン大統領よ。本当に良心のある
ロシアを作るならば、本当のテロ支援国家北朝鮮問題も真剣に考え、人類の良心の虜
囚であるマクドナルド議員を釈放し、真の共産主義犯人を捕まえる必要があるのです。
そして、007便の乗員乗客を無事に家族に帰還させる事が先決です!愛)。

●ゴルバチョフは、全てを知っていた
 再び、1992年のCIA秘密報告書に戻ると、シフリン情報を黙殺もしくは否定
しきれずに逆襲用(アリバイ用)に敢えて作成された文書とはいえ、全てが嘘で塗り
固められているわけではない。人を騙すテクニックの基本の一つは、9割の真実の中
に1割の嘘を紛れ込ませる事にあるという。この文書にも、CIAの本音らしきもの
が伺われ、中々に興味深い。
 例えば、「国務省がソ連を刺激するのを恐れたので、米海軍はソ連領海内に情報探
知装置の設置を控えて来た」と胸を張るその反面で、「CIA」による007便の事
故調査は完全な失敗であり、007便を誤って撃墜したとするソ連の見解を鵜呑みに
した」と自己批判もしてみせている。1970年代、即ちレーガンの前のジョンソン、
カーター両大統領の時代に、CIAの秘密工作が次々に暴かれて世間から厳しい糾弾
を受け、その組織が弱体化された過去への恨みを見え隠れさせた弁解弁明でもある。
 そして、報告書は論旨を拡大していく。

 「この問題に関して、ソ連のペレストロイカ指導者達の間で行われた如く最近の議
 論についていえば、ミハイル・ゴルバチョフは、そもそも初めから事の真相に十分
 気付いていた。と云う訳で、1983年にゴルバチョフが果たしていたソ連指導部
 に於ける役割を考慮すれば、彼はKAL007便に関するソ連の嘘と欺瞞に責任が
 ある事になる」

 等と、ゴルバチョフの事件関与に苛立ちを示しつつ、責任転嫁さえしているのであ
る。
 ゴルバチョフは事件当時ソ連共産党政治局員で、ユーリー・アンドロポフがソ連の
最高指導者に育て上げようとしていた傑物と言われていた。そして、その2年後の8
3年、アンドロポフの死去に伴い、ソ連共産党新書記長としてソ連最高指導者の地位
についている。
 従って、CIA報告書が言うように、ゴルバチョフが大韓機事件の細部に亙る秘密
を知り、政治局内で論じられた全ての情報を熟知していた事は、疑うべくもない。大
韓機007便に生存者はいなかったと言うエリツィンが何処まで”真実”を知ってい
るかは解らないが、ゴルバチョフが事の始まりから関与していた事は確かだろう。1
990年にゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞しているが、その受賞も、こうした
内情を知る人達(KGBやCIA等の情報機関筋)には、とんだ茶番劇しか映らなか
った筈だ。

●歴史の闇に葬られかけた”真実”
 1991年12月、ヘルムズ上院議員に貴重な情報を託した後も尚、シフリンの追
跡グループがKGBの厳しい監視の目を避けつつ大韓機の生存者の行方を追い求めて
いた時、米ソは奇妙な祝杯を交わしていた。

 「ミハイル・ゴルバチョフが長年に亙って継続してきた世界平和への貢献と、彼の
 知性、洞察力、そして勇気に対し、私は彼に感謝の気持ちを述べたいと思います」

 ジュージ・ブッシュ大統領(当時)は、12月26日に、モスクワでソ連全国民に
そんな挨拶を送っていたのだ。その前日の12月25日、ゴルバチョフは、ソ連大統
領の地位を退く事を発表していた。ソビエト連邦の消滅である。
 破滅状態に陥ったソ連経済に慌てたウォール・ストリートの金融家達がモスクワに
送った応援団が、TC(日米欧三極委員会。後出)のメンバー達だった。そのいわば
団長役のブッシュにとって真に気掛かりだったのは、ソ連邦の消滅よりも、KGB体
制の崩壊だったのではなかろうか。つまり、大韓航空007便撃墜事件の真相を永久
封印する事で、CIAとKGBの絆を一層強固にしようとした合意がそこで交わされ
たのは間違いない。
 政治的な混乱があっても、KGBが機能している限り、ソ連。ロシアの社会の秩序
は曲がりなりにも保たれる。それならば、ソ連と言う国家が莫大な責務超過で破産し
ても、”会社更生法”を適用して再建築を図り、”投資家”達の権益を守る事が出来
るーー奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、この時期にモスクワを訪れたブッシ
ュ大統領の頭には、そうした計算があり、その為にも007便事件の欺瞞を隠し通そ
うと腐心したに違いない。
「ボリス・エリツィンを小馬鹿にているブッシュが、ゴルバチョフに”君は未だ主人
(ソ連の)なのだ”と励ます訪ソ旅行」と、アメリカの作家ユースタス・マリンズは
ブッシュ(今のブッシュ大統領の親である元ブッシュ大統領!愛)訪ソの目的を婉曲
にそう表現している。そのゴルバチョフは、KGBのゴッド・ファーザーだったアン
ドロポフの”秘蔵っ子”であり、直々の”愛弟子”だったから。KGBとの繋がりは
深い。
 生命を掛けて必死に追跡活動を続けるシフリン等にすれば、ブッシュ大統領がゴル
バチョフにエールを送るのは、喩えて言えば、首を吊ろうとしている人の足を引っ張
る行為に等しい。収容所を管理するKGBの監視が強化されれば、007便の生存者
達の消息が益々掴み憎くなるからだ。
 それだけに、共産主義体制崩壊の真っ只中にいた米ソ首脳には、8年前に起こった
(1991年の米ソ首脳会談当時からの8年前の話!愛)007便事件の真相の隠蔽
に必死だったのであろう。
 大韓航空機事件の”真実”は、微動する歴史の大渦に危うく飲み込まれ掛っていた
のである。

●事件は未だ終わっていない
 事件から13年が経過した1996年1月、事件関連のニュースが日本でもさり気
なく伝えられた。
 同年1月18日付の毎日新聞によれば、「米最高裁、大韓機事故慰謝料認めず」の
見出しでワシントン支局発として次のように報じられていた。

 「米連邦最高裁は16日、1983年にサハリン沖で撃墜された大韓航空機の米国
 人遺族が起こしていた家族慰謝料の支払いを求める訴訟で”家族の慰謝料は認めら
 れない”とする判決を言い渡した。米国の国内法により賠償額は”金銭上の損失”
 にかぎられるとの見解を示した」

 最高裁の判決が出たと云う事は、”事件の終焉”が告げられた、と云う事である。
こうして、幕が下ろされようとしていた1月16日、ソウル発の共同電はこう伝えて
いた。

 「韓国SBSテレビは15日、米中央情報局(CIA)が最近、1983年の大韓
 航空機撃墜事件に関する極秘報告書を纏め、同機がソ連戦闘機(当時)に狙撃され
 た後、海への非常着水に成功し、乗客生存の可能性が高いとの見方を示した、と報
 じた。
  同テレビによると、報告書は米国家安全保障局(NSA)等情報機関の資料を基
 に作成され『同機が非常着水を試みたのは明らか。成功した可能性が高く、生存者
 がいたのはほぼ確実』と結論付けている。しかし、報告書の作成時期や、現在も生
 存者がいるのかどうか等は一切不明。
  報告書は生存者の根拠について、(1)同機が狙撃後、12分間飛行していた事
 実が米国の情報と日本のレーダー追跡で明らかになった(2)事故後8日間で残骸
 や遺体等は莫大な数の遺留品が跡形もなく蒸発した(3)ソ連が国際民間航空機関
 (ICAD)に引き渡した残骸76点に同機や乗客のものと推定出来るものが一つ
 もないーー等を挙げている」(産経新聞1996年1月16日朝刊)

  裁判記事と生存者の可能性に言及した事件の話題が、96年の1月16日に通信
 社を経由して同時発信されたのは、単なる偶然なのだろうか。
  しかも、ソウル発が伝える、生存者うんぬんを記した秘密報告書とは、その4年
 前の1992年に韓国の孫世一国民党議員が”発表”した、あのシフリン・レポー
 トを”盗作”したCIA秘密報告書の全文が初公開されている。007便のブラッ
 クボックスを回収したと云う、”アリバイ用”の秘密報告書である。それらがこの
 時期にほぼ同時に公開されたのは、偶然の一致に過ぎないのだろうか。
  おそらく、米連邦最高裁の判決で事件が人々の記憶に甦るのをシオに、再びシフ
 リン等の証拠がアリバイ作りに使われた、と云う事だろう。但し、今回アリバイ作
 りを図ったのは、西側(CIA)からだった。
  事件の後始末は、公式な手続きとしては、こうして全て終わった。しかし、事件
 は、今もなお終わってはいないのである。

9,11はどんな事件だったか?覚えていますか??

あの忌まわしい事件を忘れない為に!
9,11 アメリカ同時多発テロ
今では、あの事件は嘘だったと信じている人は多い
当局の発表によると、以下のような事件であった!
2001年9月11日(火曜日)午前8時46分 - 午前10時28分
旅客機が4機 ハイジャックされ4箇所にテロ攻撃をした!
☆ニューヨーク☆ ワールドトレードセンターの北棟と南棟、
☆アーリントン☆ アメリカ合衆国国防総省本部庁舎ペンタゴン。
☆シャンクスビル☆ 第4の標的は不明。ワシントンD.C.の場所だと考えられている。

死亡者 2,993人(19人のテロリストを含む) 負傷者 6291人以上 
行方不明者24人(遺体が確認されていない)
容疑者 アルカーイダ

その後、アメリカはアフガニスタン紛争イラク戦争を行うことになる!
イラク戦争は、ついこの間、2010年8月31日にオバマ大統領によって終結宣言が出された!

アメリカは過去の歴史を見ても解るように、
「リメンバー・アラモ砦!」
「リメンバー・メイン号!」
リメンバー・パールハーバー!」
ア メリカの戦争はいつも「リメンバー!」だった!
戦争を始める口実の為に 9,11は仕組まれたのでは?
ほんとうの
テロリストは誰だ?
真実はどこに?
 
真実を追求したドキュメンタリーの中で多くの人が見たLOOSE CHANGE 2ND EDITIONを
この時期にあえて掲載します!まだ見ていない人は、じっくり見てほしい!

見た事ある人は、今の世界情勢を考える上でも思い出してほしい!
もし...
『911』が、アメリカへの奇襲攻撃ではなく、
アメリカ政府自身によって冷徹に、綿密に計画された
大虐殺だったとしたら?
「民間航空機がツインタワーに突っ込み、その後ジェット燃料で崩壊した」とされている。
「ペンタゴンにボーイング757が突っ込んだ」とされている。
「93便はペンシルバニア州シャンクスビルに墜落した」とされている。
「地球を半周してやって来た19人のアラブ人が、オサマ・ビン・ラディンの命令でやった」とされている。

そんな911の常識を、この映画は根底から覆すだろう。

9.11の嘘を崩せ
 LOOSE CHANGE 2ND EDITION
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多くのマスメディアの報道を信用してはいけない、
マスメディアは真実を伝えるのではなく、真実を覆い隠す為にあるのだから!

学校では教えない真実 ~中国の「正しい歴史認識」の正体~

日本の学校では真実は教えない日本近代史
日教組の嘘 洗脳から 抜け出そう!

以下Remnant サイトより

中国の「正しい歴史認識」
の正体

日中戦争はなぜ起こったか。
日本は中国に「迷惑」をかけたか。
今こそ自虐史観を克服し、本当の歴史を知ろう。
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蘆溝橋の上の日本兵たち。ここで共産兵
が放った銃弾が日中戦争の始まりだった

 かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
 しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。
 大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。
 さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。
 ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
 このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
 そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。


史上最悪の内戦国家だった中国

 「日本は中国を侵略した」ということがよく言われてきました。中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。それが「正しい歴史認識だ」と。しかし史実をみるなら、決してそうではありません。
 日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと奔走しました。中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。
 それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。
 人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家でした。
 各軍閥(ぐんばつ)は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆でした。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していました。そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、何度も起きていました。
 このような状態は、お隣りに住む日本としても、決して座視できないものだったのです。
 たとえて言うなら、長屋に住んでいる人がいて、そのお隣りに、たくさんの子どもをかかえた夫婦が住んでいるとしましょう。夫婦は毎日ケンカをしていて、物が飛び交い、しばしば窓ガラスを破って物が飛んできます。また、彼らは働かないために収入がなく、やがて子どもたちの中に飢え死にする者まで現われました。
 こうした場合、お隣りに住む者としても、決して座視はしていられないでしょう。何とかしてあげたいと思うものです。
 それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、もう一つの理由がありました。それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略です。
 西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていました。アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方です。主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていました。
 一八三九年に起こった「アヘン戦争」は、その西欧のやり方を端的に示すものでした。これは、イギリスが清国(中国)に対して仕掛けた卑劣な戦争です。イギリスは大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとし、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いたのです。このようにして中国は、西欧の植民地主義によって蹂躙(じゅうりん)されつつありました。
 一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていました。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、南下政策すなわち侵略を続けていたのです。彼らは中国も手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と機会をねらっていました。
 このように、もしこの混乱する中国に西欧列強またはソ連の勢力がいすわってしまえば、次はお隣りの日本が危険にさらされる番なのは目にみえています。
 したがって日本が望んだことは、この中国が、外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本とも共に手をたずさえて、西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗してくれることだったのです。


清国から日本に続々やって来た留学生たち

 それで日本は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年喜んで受け入れました。日本は清国から学びに来る彼らに、知識を与え、独立心を育てていきました。
 その中国人留学生の数はピーク時の一九〇六年には、二、三万人にものぼったといいます
 中国人留学生が日本の港に到着して、まず驚いたことは、小さな学童たちがみな学校へ通う姿でした。それは当時の中国では、考えられない光景だったからです。中国では、学校というのはごく一部の人々のためでした。大多数の人は文盲であり、字が読めなかったのです。
 しかし、向学心に燃えた中国人たちが、競って日本に学んでやって来るようになりました。のちに中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘も、法政大学で学んだ人物です。日本は彼らを喜んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していったのです。
 当時、日本人の口によくのぼった言葉に、「中国の覚醒」というのがあります。中国人自身が目覚め、彼らが自分たちで近代化された中国をつくってくれることを、日本人は心から願いました。
 日本はいずれ中国と共に、東亜世界における共同防衛体制を構築したいと考えていたのです。西欧列強にもソ連にも侵されることのない共同防衛体制です。それが日本の安全保障だからというだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えたからでした。
 日本が中国に求めたのは、あくまでも日中の共存共栄だったのです。
 この「中国人による中国人のための近代的な中国」を造るという日本の望みと支援は、ある程度まで実を結んでいきます。
 日本に留学した中国人らは、その後の中国近代化のために知識や技術、文化をもたらしていきました。それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだったのです。
 清朝末期の中国では、学問といえば「四書五経」くらいしかありませんでした。そこに日本留学経験者たちを通して、はじめて近代的な自然科学が紹介されました。また産業、司法制度、文学、近代音楽、自由民権思想、義務教育、近代的警察組織、その他近代国家の要素が紹介されていきました。
 その影響の大きさは、たとえば今日も中国語に残っている「日本語から来た外来語」の多さにもみることができます。現代中国語にある外来語のうち約三六%は、もと日本語のものなのです。
 今も中国語として使われている次の言葉は、どれも「中国語となった日本語」です。「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」「理論」「広場」「石油」「現金」「国際」「学校」「学生」「保健」「出版」「電波」「警察」「栄養」「建築」「工業」「体操」「展覧会」「農作物」「図書館」「生産手段」「新聞記者」……。
 近代中国の基礎は、日本の影響のもとに造られたといって決して過言ではありません。
 日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援などにより、清朝末期における日中両国は、蜜月ともいえる良い関係となっていました。当時の中国人にただよっていたムードは、「反日」ではなく、むしろ「慕日」であったのです。


清朝の滅亡と中華民国の誕生

 さて、やがて清朝の終わりに中国で革命が起こり、中国の多くの省が独立して、彼らは南京に「中華民国」臨時政府を樹立しました(一九一一年)。これはアジア初の共和制国家であり、その臨時大総統に、革命家の孫文(そんぶん)が就任します。
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孫文。「中華民国」
臨時政府を樹立したが……
 孫文は、日本と連携して、近代的な独立国家の中国をつくろうとした人でした。もしこの新政府が順調に成長したならば、今日のような共産主義の中国は生まれなかったでしょう。
 しかし、当時の中国は非常に未熟な社会であり、誕生したこの新政府も、日本の明治維新のようにはスムーズにいきませんでした。というのは、新政府の人間の多くは信念よりも利害で動く人々であり、利害次第ですぐ寝返る人々だったのです。
 また新政府といっても名ばかりで、充分な資金も国をまとめる力もなく、まったく無力でした。清朝の皇帝もまだ皇帝の座にあり、内乱が収束したわけではありません。そうした中、孫文のところに近づいてきた人物がいました。
 清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)です。彼は結局、陰謀により、この新政府を乗っ取ってしまいます。
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袁世凱(えんせいがい)。陰謀により、
新政府を乗っ取ってしまう。

 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「だます者と、だまされる者」の歴史です。中国に『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書がありますが、これは一言でいえば、「いかにして人をだますか」ということが書いてある書物です。
 中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きに語ることは不可能なのです。袁世凱は、その裏切りの達人だったといってよいでしょう。もともと彼は、数々の陰謀と裏切りによって、清国軍の最高司令官の座にのぼりつめた人でした。
 袁世凱は、崩壊寸前の清朝から、孫文を討つために遣わされて来たのです。ところが、袁世凱はこともなげに清朝を裏切り、今度は新政府の乗っ取りを謀ります。彼は言葉巧みに孫文に近寄り、幾つかの交換条件とともに、
 「私が清の皇帝を退位させるから、私を中華民国の大総統にしてくれ」
 と孫文に持ちかけます。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位をゆずってしまいます。
 このとき、大きな失望を味わったのが、それまで孫文を支援してきた日本人志士たちでした。
 そもそも日本人志士たちが孫文を支援してきたのは、列強の侵略になすすべを持たない腐敗堕落した清国政府を倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強をはかろうという、孫文の主張に共鳴したからでした。一方で、彼らの目には、袁世凱はとてもそのような理念を解せる人物には映りませんでした。
 日本人志士のひとり、内田良平は、孫文がいとも簡単に政権を袁世凱に譲り渡したことを知って、激怒して言いました。
 「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と変わらない。アジアの解放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を、孫文に抱き続けたことは誤りだった」
 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思う人々でした。しかし中国では、残念なことに、利害次第でどうにでも動く人々が大勢を占めていたのです。
 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生したとき、心から喜んだ一人でした。けれども、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、
 「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ
 と言いました。大局を観ずに、場当たり的な行動をする孫文に深く失望したのです。このとき、中国での維新を目指し、「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の試みは、実質的に挫折したと言ってよいでしょう。
 案の定、袁世凱はその後まもなく、孫文らを裏切ります。すべては国家を私物化するための袁世凱の策略だったのです。袁世凱は、孫文らがつくった民主的な新法も廃止し、彼らを追い出し、宋教仁をも暗殺して、独裁政治を始めました。
 こうして、単に独裁者が入れ替わっただけの革命となり、中国近代化の道は遠のいたのです。孫文らは抵抗しますが、もはやあとの祭りで、彼らは敗北し、またもや中国は混乱の泥沼に入り込んでいきました。


夷をもって夷を制す

 中華民国の新しい大総統になったこの袁世凱が、そのとき自らの保身のために考えたことは一体何だったでしょう。それは、
 「夷(い)をもって夷を制す」
 ということでした。「夷」とは外国のこと。つまり外国勢力同士を対立させ、戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかることでした。またこれは、単に外国勢力同士だけでなく、自分以外の複数の勢力間にトラブルを起こし、彼らを戦わせて、自分だけが生き残ろうとする「生き残りの哲学」でもありました。
 「夷をもって夷を制す」は、中国人の伝統的な思考法です。これは一見、利口なやり方に見えるかもしれませんが、結局これが中国を亡国の道へと誘い込むことになります。これは中国を戦場化する元凶となったのです。
 袁世凱は「夷をもって夷を制す」の考えにより、まず西欧列強と日本の間に対立を生み出します。満州にもアメリカを引き入れて、日本とアメリカの利害が対立するよう仕向けました。
 また、中国民衆と日本の間にも対立を生もうと、様々なウソを流して、反日宣伝をし始めたのです。その反日宣伝は、相当な効果を生みました。その反日宣伝の一環に、たとえば有名な、
 「二一カ条の要求」
 があります。これは日本が袁世凱政府に提出したものですが、日本が中国の新政府のもとでも正常な経済活動等ができるように求めた要求、というよりは希望でした。なぜなら、交渉を通して幾度かの修正や削除が行なわれているからです。
 この「二一カ条の要求」は、日本の侵略的姿勢を表すものと言われていますが、そんなことはありません。たとえば孫文は当時、この二一ヶ条について、
 「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なものだ」
 と理解を示しました。孫文はさらに、日本の外務省に日中盟約案を送っており、それは日本政府の「二一カ条の要求」とほとんど内容が符合するものでした。このように日本政府の「要求」は、当時としては決して理不尽なものではなかったのです。
 ところが袁世凱は、その内容をゆがめて内外に伝えます。日本側としては全く記憶にない「要求」まででっち上げて、「日本はこんなにひどいことを言う」と悪口を言いふらしました。それによって国外では、西欧列強と日本が対立するようになります。
 また国内では、排日運動が巻き起こりました。条約締結の日も、「国恥記念日」として民衆に反日感情があおられました。中国では民衆の不満は、政府にではなく外に向けさせることが、為政者の伝統なのです。つまり「悪いことはすべて他人のせいにする」――その戦法で、中国民衆に反日感情を生んでいきました。
 袁世凱はこうして、自分以外の複数の勢力を対立させ、彼らの対立を利用して自己の保身をはかるという、「夷をもって夷を制す」の考えで行動した人でした。この考えは、のちに見るように共産党の毛沢東も使ったものであり、中国の混乱をさらに激化させ、戦場としていく原因となりました。


排外運動に翻弄された日本

 さらに、反日感情のもう一つの源泉は、「中華思想」でした。これは、中国文明が世界の中心であり、そこから離れた遠い国ほど野蛮で、劣った国だという思想です。
 つまり唯我独尊、独善的な思想なのですが、これにより民衆の中に、「日本や西欧諸国は中国より劣った野蛮な国だから、排斥すべきだ」という「排外運動」が起きるようになります。西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起きました。
 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、とくに日本人に対して向けられるようになります。どうしてでしょうか。それは、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからです
 たとえば、一九二六年に「万県事件」というのがありました。長江一帯で、反英運動が広まるなか、イギリスの商船が中国側に拿捕されたのです。そのときイギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊しました。
 これにより、中国人はすっかり縮み上がってしまいました。その結果、反英運動もなくなったのです。これについて台湾の歴史家、黄文雄氏は、
 「自分のかなわない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」
 と語っています。中国人は、暴君として臨んだ西欧列強を、自分が勝てない相手とみるや従順になったのです。ところが以来、この民衆の排外エネルギーは、イギリスのような苛酷な措置をとらない日本にしぼられるようになります。
 日本人も、イギリス人と同様、排外主義のターゲットにされ、テロをされたり、攻撃されたりしていました。しかし日本は、極力自重して、反撃をしませんでした。日本人は、何とか中国と友好関係を築こうと、忍耐強く平和的解決を努力したのです。「幣原(しではら)外交」(幣原喜重郎外相)として知られる平和主義などです。
 ところが、中国人は暴君には慣れていましたが、平和主義には慣れておらず、それを理解しませんでした。中国人は、そんな弱腰な友好的態度をとろうとする日本は、何か弱みを持っているからだろうと考えたのです。西洋は強いが、日本は弱いと。
 また、日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実でした。たとえば北清事件の際、西欧列強の軍隊が占領した地域では住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていました。しかし日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていました。
 日中戦争中も、飢饉や戦闘に巻き込まれて傷ついた中国の民間人を、日本軍は多数救済しています。救済された住民は日本に感謝しました。ところが、周囲の他の中国人は、そのような日本人の行動を理解せず、弱者にもやさしい日本人を侮り始めたのです。
 これには中国人の特質が関係しています。日本には、「弱きを助け、強きをくじく」という伝統的美徳があります。ところが中国にはそういった観念はありません。中国では、強者はつねに弱者を虐げる者なのです。強者は弱者を助ける、という観念はありません
 中国ではいつも暴君が上に立ち、民衆はそれに支配され、搾取されてきました。民衆は五〇〇〇年間、抑圧されて生きることしか知りません。ですから中国人は、弱者を助ける日本人や、暴力を受けてもなかなか反撃しない日本人をみたとき、その行動を理解せず、それは日本人に「弱み」があるからだと考えたのです。
 中国の文豪・魯迅(一八八一~一九三六年)は、中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だと嘆いています。たとえば呉越の戦いの物語に象徴されるように、相手の弱みをみると、それにつけこまなければ天罰が下るとさえ考える民族が、中国人なのです。黄文雄氏もこう述べています。
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彼は、中国人は相手が弱いとみるや、
その弱みにつけこむ民族だと嘆いた

 「弱者にまで友好的な態度を取るとなれば、それはよほど無力であり、弱みがあるからだろうと解釈し、つけこんでくるのだ。これは有史以来、戦乱、飢饉の絶え間ない弱肉強食の世界で生きてきた中国人の生存本能がなせるわざだろう」
 このように中国人は、西洋は強いので逆らっても勝てないが、日本は弱いから逆らえるとみたとき、西欧に対する排外主義を引っ込め、反日主義にしぼりました。つまり日本人の中国人への同情とやさしさが、かえって日本人への侮りと、反日運動を増長させる結果となったのです。
 これは、日本人には理解できないことかもしれません。しかし、それほどに中国人と日本人は違うのです。
 中国人のこの性向は、今日も同じです。たとえば中国にとって、アメリカは昔も今も大きな敵です。しかし中国で反米主義は燃え上がりません。それは、アメリカには逆立ちしても勝てないからです。
 けれども、日本には逆らえます。日本人は自虐的で、おどせば、すぐ謝るからです。ですから日本人が自虐的になればなるほど、中国は加虐的になってきます。こうして中国は、政府主導で反日主義を今も燃え上がらせるのです。そして国内の不満を外に向け、民衆の不満のガス抜きをしているわけです。
 
 
混乱と死の大地だった中国
 
 さて、日中戦争(一九三七~四五年)が始まった頃の中国とはどんな国だったかを、少しみてみましょう。
 当時の中国は、飢饉と内乱で毎年数百万人、ときには数千万人の犠牲者を出す、世界史上まれにみる混乱と死の大地でした。
 飢饉は毎回、数十万人から数百万人の犠牲者を出し、一千万人を越えることもしばしばであったのです。飢えた民衆が各地で人の肉や、自分の子どもの肉を食べたという話が、当時の資料に多く見受けられます。
 また当時の中国は、中華民国政府が誕生したとはいえ、それが全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していました。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」とののしりあい、内戦を繰り返していたのです。
 つまり、中国とは言っても国家の体をなしていなかったのです。また、内戦によっても、多くの民衆が犠牲になっていました。数百万、また数千万人の犠牲者を出すこともありました。ですから中国の人口は常に大きく変動していたのです。
 当時、中国の市場には、なんと人肉が売られていたほどです。人肉は、獣肉よりも安値でした。それは獣肉より人肉のほうが豊富に手に入ったからです。また男の肉は女の肉よりも安値で売られていました。
 中国の人肉食文化は唐の時代から記録がありますが、それが二〇世紀前半まで続いていたのです。これは、当時の中国がいかに凄惨な混乱と死の大地であったかを、如実に示しています。
 大多数の民衆は、日々を生きていくのがやっとであり、毛沢東に言わせれば「貧しくて無学無知」の人々でした。そうしたなか、人々の中に、他人が早く死ぬことを望む性格や、人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性などが形成されていったのです。
 さて、孫文のつくった中華革命党は、のちに改組して中国国民党と称しました。その孫文の亡きあと、国民党を継いだのが、蒋介石でした。しかし蒋介石の国民党も、ひどい内戦を繰り返し、分裂していきます。
 蒋介石から分かれた人物に、汪兆銘(おうちょうめい)がいます。国民党内では、汪兆銘のほうが蒋介石より人望がありました。汪兆銘は当初は反日家でしたが、のちに中国の未来を考えて親日政権を樹立します。日本は汪兆銘の政権を支援しました。
 汪兆銘は、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていました。汪兆銘と蒋介石を比べるなら、汪兆銘のほうがはるかに中国民衆のことを考え、明確な信念で行動していたと言っていいでしょう。
 一方、蒋介石の行動をみるなら、彼は民衆のために信念で行動していたというより、むしろ自分が権力をにぎるためには何でもしたという印象を受けます。しかしそれが結局、中国を巨大な戦場と化していってしまうのです。


蒋介石の方向転換

 今も中国政府や、反日的日本人は、「日本の軍国主義が日中戦争を始めた」と言います。しかし日本には、もともと中国と戦争をする気など全くありませんでした。中国の蒋介石側もそうです。蒋介石も当初、日本と戦う気はありませんでした。
 では、なぜ日本と中国は戦争をしたのでしょうか。それは、日中戦争を待ち望んだ人々がいたからです。毛沢東の中国共産党です。
 彼ら共産軍は、蒋介石の国民党軍との内戦を戦っていましたが、追いつめられ、いまや風前の灯火となっていました。そこで起死回生の策として考え出されたのが、日本を中国の内戦に引き込み、日本と蒋介石の軍を戦わせることだったのです。
 先ほども述べたように、「夷をもって夷を制す」の考えは、中国人の伝統的な戦法なのです。共産党は「夷をもって夷を制す」の考えで、蒋介石の軍と日本軍を戦わせ、両者を消耗させることにより、自らの生き残りをはかったのです。
 それは次のように起きました。蒋介石は西安にいたとき、油断したのでしょう、不意をつかれたところを、ひそんでいた共産兵に捕らえられ、捕虜となってしまいます(西安事件)。
 蒋介石は、毛沢東の前に連れて来られます。毛沢東は蒋介石を目の前にして、殺してしまおうと思います。敵の大将がお縄になっているのですから、簡単に殺せたでしょう。ところが、そこにソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、毛沢東に指令が来ます。
 「蒋介石を殺さず、蒋介石と日本軍を戦わせよ
 と。つまり蒋介石の国民党軍と、日本軍を戦わせることにより、両者の力をそぎ、その間に共産軍の力を回復せよとの指令です。また、そののち力をつけた共産軍が彼らを打ち負かして、中国全土を征服せよという計画です。毛沢東はこの指令に従います。
 まさに「夷をもって夷を制す」の考えです。毛沢東は蒋介石に、
命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え
 といいました。すると蒋介石は、「それならば、共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」といいます。こうして、いわゆる「国共合作」が実現したのです。
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蒋介石。彼の方向転換により、日本は日中戦争
を戦わなければならなくなった。彼の側近には共
産党から差し向けられた者たちが多数入り込み、
彼の行動を逐一監視していた。

 蒋介石は結局、こうして命拾いしたわけですが、彼は自分の命と引き替えに共産軍の拡大を許したのです。また蒋介石が日本と戦うようになった背景には、アメリカの手引きもありました。アメリカの物資援助がなければ、蒋介石の軍隊は一歩も立ちゆかなかったからです。
 蒋介石が戦う相手を共産軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといってよいでしょう。なぜならば、そのために彼はのちに共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら台湾に渡らねばならないはめになったからです。
 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとってきわめて不幸なことでした。国共合作といっても、実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは蒋介石のほうでした。共産軍は、蒋介石の国民党軍を利用したのです。国民党軍が日本と戦っている間に、共産軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去ったあとに、国民党軍を打ち負かすことになります。
 その結果、中国は近代的国家になるどころか、結局、全体主義的な共産主義国となってしまったのです。


共産軍の策略

 日中戦争、すなわち蒋介石の軍と日本軍の最初の交戦は、ある小さな出来事を通して始まりました。それは、共産兵が仕掛けた事件でした。
 当時、日本軍は中国の北京近郊や、満州に、今日でいう「平和維持軍」の形で駐留していました。もちろん、こうした駐兵は、平時においてはすべて国際条約に基づいた合法的なものです。決して「土足であがりこんだ」というようなものではありません。北京近郊での駐留も、北京議定書という法的根拠に基づいていました。
 今日もイラクや、アフガニスタンには、列強諸国の軍隊が平和維持軍として駐留していますが、それと同様の形です。当時の中国は、外国の平和維持軍の存在なしには治安を守れなかったのです。
 しかし、その駐留していた日本軍を中国の内戦に巻き込もうと、共産軍はある策略をめぐらしました。それが「蘆溝橋(ろこうきょう)事件」です(一九三七年)。蘆溝橋(北京市南西郊外)の北で夜間演習中の日本軍に、中国側からと思われる数発の銃弾が撃ち込まれたのです。しかし当時、日本は中国との紛争を避ける方針でしたから、それに応戦しませんでした。
 けれども、翌朝、再三にわたる銃撃を受けたため、ようやく付近にいる中国の国民党軍を攻撃しました。これが蘆溝橋事件のあらましですが、事件の引き金となった銃弾は共産兵が撃ち放ったもの、というのが今日の定説です。
 中国政府は「日本軍の攻撃」としていますが、そうではありません。事実、かつて共産党の劉少奇は、この事件を自分の工作実績の自慢話として語っていました。また共産軍は、事件の翌日、日本との開戦を主張する激烈な声明を出しています。そして蒋介石に対日開戦を強く迫りました。また事件直後に、コミンテルンは中国共産党へ、
局地解決を避け、日中全面戦争に導け」「局地解決を行なう要人は抹殺しろ
 との指令を出しています。それで共産軍は、現地の停戦協定が成立し、戦争が終わりそうになると、各地で日本人に対するテロを繰り返し、戦争を挑発しました。日本人二〇〇名以上が虐殺された事件も、そのときに起きています。
 しかしそれでも、日本は忍耐の限りを尽くしました。戦争の挑発になかなか乗らず、たとえば一九三八年から一九四一年の間に、一二回もの和平提案を行なっています。しかも、その条件は中国側に有利なものでした。中国に対する領土的要求も含まれていませんでした。
 けれども、やがて共産軍の陰謀は成功します。日本は蒋介石の国民党軍と全面的な戦争状態に入っていきました。日本はこうして「内戦のわな」に、はまっていったのです。
 日本軍と国民党軍との戦いは、実際にはほとんどの場合、日本軍が攻撃すると国民党軍が逃げるという形で進みました。国民党軍は、やがてどんどん弱体化し、重慶のあたりまで引き下がらざるを得ませんでした。一方、そのあいだに共産軍はどんどん力を回復し、日本軍の後方に広がることができたのです。
 やがて一九四五年、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏すると、日本は中国大陸から引き上げていきました。しかしその直後、共産軍と国民党軍の内戦が再び勃発しました。共産軍はまたたく間に国民党軍を破り、全土を制覇しました。
 こうして共産主義の中国が誕生したのです。つまり、日本軍を巧みに中国内戦に巻き込むことによって、共産軍は生き返り、自分たちの目的を果たしたのでした。
 この共産党の策略について如実に語っている出来事があります。一九六四年に、佐々木更三委員長を団長とする日本社会党訪中団が、毛沢東と会談し、「日本軍国主義の中国侵略」について「謝罪」しました。
 社会党というのは、「日本は中国で悪いことばかりしてきた」という歴史観を教え込まれた人々です。彼らが謝罪すると、毛沢東は言ったのです。
 「何も申し訳なく思うことはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれた。皇軍(日本軍)なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」
 そう言って「日本に感謝した」話は有名です。もちろん、これは本当の意味での「感謝」ではありません。共産党の謀略にまんまとひっかかった日本に対する一種の嘲笑の言葉なのです。
 毛沢東にしてみれば、日本軍が国民党軍を叩いてくれたからこそ、その間に共産軍が息を吹きかえし、全土を征服することができたからです。彼こそ、史上最悪の中国内戦によって「漁夫の利」(両者の争いに乗じて苦労せずに利益を横取りする)を得た者でした。
 このように、中国共産党を相手に「謝罪」することがいかに愚かなことか、もっと多くの日本人が知るべきでしょう。「日本は中国に迷惑をかけた」どころか、迷惑を受けたのは日本のほうなのです。


久保有政著

日中戦争の真実へ続く


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honeycreeper

Author:honeycreeper
月の物性
 ・ 太陽の直径約13万kmに対して、月の直径は400分の1の3,476km、地球の直径約12,742kmの約4分の1。
 ・ 地球から太陽までの距離1億5000万kmに対して、地球から月までの距離は、400分の1の38万4000km。
 ・ 地球にはいつも同じ方向を向けている(公転周期=1恒星月=約27.32日)。
 ・ 裏側の方が膨らんでいる。地形も複雑。
 ・ クレーターと海の成因からすれば、表も裏も同じような地形になるはず。
 ・ しかし、実際には、月の海は表側に集中し、クレーターは裏側に多い。
 ・ 裏の地殻が表よりも40~50kmも厚い。
 ・ 月着陸船等の数回の衝突実験で、月面は約一時間から3時間も振動しつづけ「鐘のように鳴り響いた」。
 ・ 小さな振幅から次第に大きくなってピークを迎え、そのピークが長く続いた後徐々に減衰していくという、地球の地震のパターンとは全く違っていた。
 ・ 地球の地震波はせいぜい数10秒。月面の内部には、地下数十kmのところから大きな空洞になっていることが推定される。
 ・ 月の岩石は約53億年前~70億年以上、アポロ17号での石は、約200億年前のもので、約46億年前に誕生した地球よりも古い。
 ・ 月は、地球が誕生する46億年以前から銀河系宇宙に存在していた古い惑星。
 ・ 月の表面の岩石の密度は2.96で、地球の表面の平均密度2.27より重い。月全体では3.34、で地球全体での5.52の6割しかない。
 ・ 月には高温の核は存在せず、過去においても強力な磁場が存在した形跡がない。
   月の岩石には36ガンマという強い化石磁場が含まれている。
 ・ 地表1,5m以上ドリルで孔をあけられなかった。NASAの科学者は「月は内核と外面が裏返しになっているようだ」と述べる。
 ・ 月の内部が空洞になっていることから月には磁場がない。探査機でも確認。
 ・ 月の内部は空洞であるため重心がない。
 ・ 「月の外郭は二重構造になっている。外側の第一外郭は素石殻。 内側の第二外郭は人工的に作られた堅固な金属殻で、海の部分は第一外郭が極めて薄いか、まったくない場所。 隕石の衝突によって第一外郭が破損したので、第二外郭(船体)を強化するために、耐熱性金属成分を大量に含む溶岩状物質を人工的に作り、破損箇所に注ぎ込んだ。その結果できあがったのが海である」という説がある。
 ・ 水蒸気が月の深部から漏れ出ているのを検出。
 ・ ヴァシンとシュシェルバコフは、月の内部に「直径約3,300kmの別の天体があり、その表面に諸施設が配され、この内部球体と外郭の間には約43kmに及ぶ空洞部があり、そこに生命維持用のガスが蓄えられている」と言っている。

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